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山岡鉄舟さんの残した言葉【一刀正伝無刀流の開祖】1836年6月10日~1888年7月19日

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鉄舟「修身二十則」 (鉄舟が満13歳の時に自身に課した人生訓) 嘘を言うべからず候 君の御恩は忘るべからず候 父母の御恩は忘るべからず候 師の御恩は忘るべからず候 人の御恩は忘るべからず候 神仏ならびに長者を粗末にすべからず候 幼者をあなどるべからず候 己れに心よからざることは、他人に求むべからず候 腹を立つるは、道にあらず候 何事も不幸を喜ぶべからず候 力の及ぶ限りは、善き方につくすべく候 他をかえりみずして、自分のよきことばかりすべからず候 食するたびに、稼穡(かしょく→種まきと収穫、農業)の艱難を思うべし、すべて草木土石にても、粗末にすべからず候 ことさらに着物を飾り、あるいはうわべをつくろう者は、心に濁りあるものと心得べく候 礼儀を乱るべからず候 何時何人に接するも、客人に接するように心得うべく候 己の知らざることは、何人にても習うべく候 名利のために、学問技芸すべからず候 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、あるいは笑うべからず候 己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず、すべて我が心に恥ざるに務むべく候 「一国を治めるものは、まず手近く自身からしなければならない。親子兄弟一族の治めがついて、さしつかえがないというに至ったならば、この秘法はたちまちに万機に応じることができる。」 「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」 「武士は義のためには、たとえ貧に処するも厭わず、不義のためには、富貴であっても好むところではない。」 「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える。」 「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」 「およそ大凡人たるものは、誠忠が肝要である。ゆえに時変に接しては死を見ること帰するがごとき確固たる心胆を動かさぬように鍛練が第一である。」 「人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。」 「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ。」 「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死

山岡鉄舟さんの残した辞世の句【一刀正伝無刀流の開祖】1836年6月10日~1888年7月19日

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「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」 (手にうちわを握り、座禅を組んだまま大往生をとげた。) (辞世の句) 幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩。一刀正伝無刀流の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

沖田総司さんの残した辞世の句【新撰組一番隊組長】1844年~1868年7月19日

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「動かねば 闇にへだつや 花と水」 (辞世の句) 幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。 本姓は藤原を称した。 諱は春政、後に房良。 幼名は宗次郎。

沖田総司さんの残した言葉【新撰組一番隊組長】1844年~1868年7月19日

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「刀で斬るな、体で斬れ」 「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」 「俺は猫も斬れない。」 「大刀を損じれば小刀を抜きなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手でも戦いなさい 。戦場では誰も待ってはくれないのですよ。」 幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。 本姓は藤原を称した。 諱は春政、後に房良。 幼名は宗次郎。

原田芳雄さんの残した言葉【俳優】1940年2月29日~2011年7月19日

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「たった1日の出来事を描いた作品でも、実際には家族の歴史60年が入っている。日常の何げないやりとりの中に、微妙な色合いで人間のおかしみ、哀しさも織り交ぜられている。そこが映画の味わい。」 「僕自身にも七転八倒しながらも、30年、40年と役者を続けてきたという既成事実がある。だからといって、自分の中から新しいものを生み出すなんていうのは、不可能に近いわけ。それよりも誰かと出くわし、出合い頭でぶつかった瞬間、思いも寄らないことがポンと出てくる。若い人たちと仕事をしていると、自分では絶対に思いつかないことに出合える。それがおもしろいですね。」 「自分の思いつきなんてたかが知れているんです。思いつかないところにこそ、僕がおもしろいと感じるものがある。 せりふだって、台本を読んでいると、どうしても自分のイントネーションで、表現しようとしてしまうんだけれど、それをまず一度放り出し、壊すようにしています。そうしないと新しい何かに出くわさないから。」 日本の俳優。 東京府東京市足立区出身。ギルドB所属。紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。息子はギタリスト・原田喧太。娘は女優・原田麻由。

原田芳雄さんの残した最後の言葉【俳優】1940年2月29日~2011年7月19日

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「もう駄目だ」 (亡くなる2日前に) (最後の言葉) 日本の俳優。 東京府東京市足立区出身。ギルドB所属。紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。息子はギタリスト・原田喧太。娘は女優・原田麻由。

橋本忍さんの残した言葉【脚本家】1918年4月18日~2018年7月19日

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「人は子供の頃から勉強する。なにかを教わる。たくさんの知識を得る。しかし創造力についてはなにも勉強していない。だから、自分の批判力は自分の創造力を遥かに上回ってしまう。だから、自分を批判していてはシナリオなんか書けない。極端に言うとシナリオは、批判力をゼロにした時にはじめて生まれる。そう、下手に、楽に書け。」 日本の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村に生まれる。 脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。 1949年、サラリーマン生活のかたわら、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、黒澤明の手に渡り映画化を打診される。黒澤から長編化するよう依頼され、芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆。最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビューした。同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。1951年に退社して上京し専業脚本家となる。 以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆する。しかし、黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、あとはその10年後に『どですかでん』で1度だけ復帰する。その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高めることとなる。代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『上意討ち』、『白い巨塔』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。

デニス・テンさんの残した言葉【フィギュアスケーター】1993年6月13日~2018年7月19日

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「苦しい時は『いつかはこの苦労が報われる時が来る』、喜ばしい時は『今まで頑張って来たプレゼント』」 カザフスタン・アルマトイ出身の朝鮮系カザフスタン人のフィギュアスケート選手。閔肯鎬の玄孫。2014年ソチオリンピック銅メダリスト。2010年バンクーバーオリンピックカザフスタン代表。2013年世界選手権2位。2015年四大陸選手権優勝。 浅田真央や高橋大輔などの日本人スケーターとも親交が厚く、2014年には母国カザフスタンで主催したアイスショー「デニス・テン&フレンズ」に出演者としてふたりを招待している[6]。特に浅田真央とはタチアナ・タラソワ、ローリー・ニコルを介して接点が多い。

故人が残した名言集【7月19日】

デニス・テンさんの残した言葉【フィギュアスケーター】1993年6月13日~2018年7月19日 「苦しい時は『いつかはこの苦労が報われる時が来る』、喜ばしい時は『今まで頑張って来たプレゼント』」 カザフスタン・アルマトイ出身の朝鮮系カザフスタン人のフィギュアスケート選手。 閔肯鎬の玄孫。2014年ソチオリンピック銅メダリスト。2010年バンクーバーオリンピックカザフスタン代表。2013年世界選手権2位。2015年四大陸選手権優勝。 浅田真央や高橋大輔などの日本人スケーターとも親交が厚く、2014年には母国カザフスタンで主催したアイスショー「デニス・テン&フレンズ」に出演者としてふたりを招待している。 特に浅田真央とはタチアナ・タラソワ、ローリー・ニコルを介して接点が多い。 橋本忍さんの残した言葉【脚本家】1918年4月18日~2018年7月19日 「人は子供の頃から勉強する。なにかを教わる。たくさんの知識を得る。しかし創造力についてはなにも勉強していない。だから、自分の批判力は自分の創造力を遥かに上回ってしまう。だから、自分を批判していてはシナリオなんか書けない。極端に言うとシナリオは、批判力をゼロにした時にはじめて生まれる。そう、下手に、楽に書け。」 日本の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村に生まれる。 脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。 原田芳雄さんの残した言葉【俳優】1940年2月29日~2011年7月19日 「たった1日の出来事を描いた作品でも、実際には家族の歴史60年が入っている。日常の何げないやりとりの中に、微妙な色合いで人間のおかしみ、哀しさも織り交ぜられている。そこが映画の味わい。」 「僕自身にも七転八倒しながらも、30年、40年と役者を続けてきたという既成事実がある。だからといって、自分の中から新しいものを生み出すなんていうのは、不可能に近いわけ。それよりも誰かと出くわし、出合い頭でぶつかった瞬間、思いも寄らないことがポンと出てくる。若い人たちと仕事をしていると、自分では絶対に思いつかないことに出合える。それがおもしろいですね。」 「自分の思いつきなんてたかが知れているんです。思いつかないところにこそ、僕がおもしろいと感じるものがある。 せりふだって、台本を読んでいると、どうしても自分の