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ハリエット・タブマンさんの残した言葉【女モーセ】1820年または1821年~1913年3月10日

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「Every great dream begins with a dreamer. Always remember, you have within you the strength, the patience, and the passion to reach for the stars to change the world.」 (すべての大きな夢は夢想家から始まります。常に覚えておいてください、あなたはあなたの中に、世界を変えるために星に到達するための強さ、忍耐、そして情熱を持っています。)  アメリカ合衆国メリーランド州ドーチェスター郡出身の奴隷、後に奴隷解放運動家、女性解放運動家。 黒人奴隷をひそかに逃がした地下鉄道の女性指導者のひとりとして知られる。その功績から尊敬をこめて、「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。古代エジプトで奴隷となっていたイスラエル人をカナンの地へ導いた、古代の預言者モーセになぞらえてのことである。 2020年に発行される20ドル札で、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカドル紙幣にデザインされる事が決まった。

スティーヴ・ビコさんの残した言葉【黒人意識運動】1946年12月18日~1977年9月12日

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「A people without a positive history is like a vehicle without an engine.」 (ポジティブな過去の無い人々はエンジンの無い乗り物みたいなものだ。) 「Whites must bemade to realize that they are only human, not superior. Same with blacks. They must be made to realize that they are also human, not inferior.」 (白人には、彼らは単なる人間であって優れているわけではないことを認識させる必要がある。黒人も同じだ。黒人には、彼らもまた人間であって劣っているわけではないことを認識させる必要がある。) 南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動活動家。思想的にはアフリカ・ナショナリストかつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動として知られる1960年代後半と1970年代の草の根的な反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。 フランツ・ファノンと、アフリカ系アメリカ人のブラック・パワー運動の影響を受け、ビコと仲間たちは黒人意識という思想を発達させた。これはSASOの公式イデオロギーとなった。SASOはアパルトヘイトの終結と、南アフリカの全人種による普通選挙、そして社会主義経済への移行を目指して運動した。そして黒人共同体プログラム(BCPs)を組織するとともに、黒人の心理的活力の向上に焦点を当てた。ビコは、黒人自身が持つ人種的劣等感を払拭する必要があると考え、このアイデアを「ブラック・イズ・ビューティフル」と言う一般化したスローガンで表現した。1972年、彼は黒人意識という思想を多くの人々の中に広めるため、黒人人民会議(BPC)に関与した。政府はビコを危険分子と見做すようになり、1973年に彼を活動禁止命令下に置き、その活動を厳しく制限した。ビコは政治的に活発であり続け、ギンズバーグ地区の診療所や託児所のようなBCPsを組織するのを支援していた。活動禁止中にビコは匿名の脅迫を繰り返し受け、またいくつかの機会を掴んで警察に拘束された。ビコは1977年8月に逮捕された後、警官から激しい殴打を受け、その結果死亡した。葬儀は20,000人以上が参列した。

佐伯敏子さんの残した言葉【原爆供養塔の守り人】1919年12月24日~2017年10月3日

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「人間は意識して勤勉になるのではありません。思いの強さが、人を勤勉にするのです。」 日本の反核運動家。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島平和記念公園内で被爆者たちの遺骨を供養する原爆供養塔の清掃活動のボランティアを長年にわたって続けていたことから「原爆供養塔の守り人」「ヒロシマの大母さん」とも呼ばれる。 1945年8月6日、佐伯は長男に逢うために姉の家を訪ねていた。同日、広島市に原子爆弾が投下。姉の家は爆心地から10キロメートル離れていたために佐伯は直撃を避けられたが、母と夫の家はいずれも爆心地近くであったため、被害に遭った家族や親族たちを捜して、まだ火の海となっている市内の爆心地を駆け回った。この際、まだ生存している重傷者たちが無傷の佐伯に助けを求めたが、家族を捜す佐伯は彼らを見捨てざるを得なく、大きな後悔を残すこととなった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者たちの遺体を踏みつけるしかなく、このときの足の感触はその後も10年以上にわたって佐伯の心を苦しめることとなった。この40年後にも当時のことを「足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした」と振り返っている。 日本国外にいた夫は被爆を免れたものの、直撃を受けた兄2人や妹はその後に佐伯の目の前で次々に変わり果てた姿で死去し、母は首だけの姿となって翌月に発見され、加えて夫の両親、義姉(長兄の妻)、甥と姪(長兄の次男と長女)、伯父2人、伯母、従兄弟、計13人を70日間で失った。この間、佐伯の家族・親族同士の間ですら、「病気がうつる」といって原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家へ預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られることがあり、佐伯は戦争や原爆が人間の体のみならず心をも傷つけることを見せつけられた。 佐伯自身も被爆直後に入市したことで、残存放射能で被曝(入市被曝)しており、一時的に体調不良に見舞われたものの、後に回復。終戦後の同1945年末に復員した夫、1947年に誕生した次男たちと共に広島での生活を続けた。しかし、やがて入市被曝による原爆症が本格化した。歯がすべて抜け落ち、28歳にして総入れ歯となった。白血球減少にも見舞われ、体重は28キログラムにまで落ちた。当時はまだ被爆者健康手帳による医療扶助もなく、収入も少ないた

山口仙ニさんの残した言葉【長崎原爆の被爆者】1930年10月3日~2013年7月6日

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「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。」 長崎原爆の被爆者、日本の反核平和運動家。 1930年、長崎市に生まれる。1945年8月9日、長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.4kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に被爆、顔と全身に大火傷を負った。大村海軍病院に搬送され、1946年3月9日に退院した。 退院後も顔から胸に残ったケロイド痕に悩まされた。1951年に同校機械科を卒業したが、就職時には学徒動員先だった三菱造船をはじめ多くの企業で体格検査に不合格となった。そのため五島の父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活した。1953年には土地を売って長崎市に戻り、1957年まで饅頭屋を営んでいた。