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ユードラ・ウェルティさんの残した言葉【マッケルヴァ家の娘】1909年4月13日~2001年7月23日

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「すべてを知りつくしたなんて決して思わないことよ。」 「どんなに時間がかかっても、そんなの問題じゃない。大切なのは目標をもつこと。」 「くよくよ思い悩むのも、明るく前向きに考えるのも、活動量は同じなのよ。」 アメリカ合衆国の女性作家。 1936年最初の短編「旅するセールスマン」を雑誌に発表。1942年、1943年、1968年の3度にわたってオー・ヘンリー賞を受賞。1946年代表作『デルタの結婚式』、1954年中編「重い心」でウィリアム・ディーン・ハウエルズ・メダル受賞。1972年『マッケルヴァ家の娘』でピューリッツァー賞受賞。

平井収二郎さんの残した言葉【土佐潘士】1835年8月8日~1863年7月23日

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嗚呼悲哉兮綱常不張(ああ哀しいかな、綱常張らず) 洋夷陸梁兮辺城無防(洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し) 狼臣強倔兮憂在蕭牆(狼臣跋扈して、蕭牆に憂いあり) 憂世患國兮忠臣先傷(世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく) 月諸日居兮奈我神皇(月よ太陽よ、我が天皇をどうしようというのか) (辞世の句) 幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。 1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿や薩摩藩、長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。また、安政の大獄で処罰された水戸藩士鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。

エイミー・ワインハウスさんの残した言葉【21世紀最高のシンガー】1983年9月14日~2011年7月23日

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「自分に才能があるのは分かっている。でも歌う為に(神様に)ここに置かれたわけではないの。妻とママになって、家族の面倒を見る為にここに置かれたの。自分のやっていることは大好き。でもここで始まって終わるわけではないのよ」 「音楽をやってギグをプレイするのが大好きだし、それができることを凄く感謝している。でも正直言って、わたしはファン層のことを考えるようなタイプではないの。そういうことには興味ないのよ」 「正直言って、わたしは色々な音楽を聴いているわけではないの。ちょっと老人みたいなのよ。周りではやっていることはあまり意識していないの。クールで子供達が好きなのは知っているけれど、あまりピンとはきていないの。言ってること分かるかしら?60年代のドゥーワップ、ソウル、それにモータウンの女性グループは凄く聴いている…その姿勢や劇的な様子が好きなの。(でも)洗練されたグループはあまり好きじゃなかった。シュープリームスの大ファンではないしね。ゴールディー&ザ・ジンジャー・ブレッズのようなガレージ・ガール・グループが好きなの」 「もし自分でやっていなかったら、それを曲にすることなんてできない。自伝的なものでなければならないの。厄払いね。その中に自分の全てを注ぎ込んでいる。自分の経験を伝えられるこの表現手段がなかったら、道に迷っていたでしょう」 「わたしは複雑なコード構成にうんざりしていて、何かもっとダイレクトなものを欲していたの。50年代と60年代の女性グループをたくさん聴いていて。それらのシンプルさが気に入っていたの。何が言いたいのかはっきり分かる感じで。それでそういう方法で曲を書こうと思い始めたの」 「わたしは女の子っぽい女の子なの。この音楽だけなのよ、人生の中で唯一威厳を保っていられるのは。人生の中で堂々と振る舞いながら、「誰もわたしに触れることはできない。だって誰もわたしに触れることはできないのだから!」と言える、人生の中のただひとつの空間」 「音楽は人生で自分がすっかり正直になれる対象であり、だから時々歌いたくないと思う曲もある、それがあまりに生々しいから」 「わたしは運命を信じているし、全ての出来事には意味があると思っているけれど、神様がいるとは必ずしも思っていないの。でもカルマはすごく信じている。失礼な人達が周りにあまりに多くいるし、彼等には真の友達がいな

エイミー・ワインハウスさんの残した最後の言葉【21世紀最高のシンガー】1983年9月14日~2011年7月23日

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「I LOVE YOU」 (最後の言葉) イギリスのソウルミュージック、ジャズ、R&Bのシンガーソングライター。 2006年のアルバム『バック・トゥ・ブラック』も高い評価を受け、全英で1位(全米では7位)を記録した。ブリット・アウォーズでは、最優秀女性ソロ・アーティストに輝いた。その後もヒットを続け、翌2007年に全英で最も売れたアルバムとなった。 薬物中毒やアルコール依存症など、スキャンダラスな人物でもあり、2007年8月に夫と共に飲酒・薬物のリハビリ施設に入所、2008年1月24日には再びリハビリ施設に入所。グラミー賞を受賞した「リハブ」はリハビリ施設へ入所した自身の体験を元にしている。

梅津正彦さんの残した遺言【ボクシングコーチ】1968年12月13日~2013年7月23日

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遺言インタビュー 健康な人には、僕のいまの気持ちは正直、わからないと思うんですよね……。余命があと30年あったはずが、突然、1年しかなくなった。僕の1日は、普通の人の30日分なんですよ。 だから、僕が子供と長く遊びすぎると、カミさんが『もう、いい加減にしなさい』と叱るけど、『お前はこれから子供と何十年も一緒にいられるんだろ? 俺はあとどれだけいられるかわからないんだぞ!』って、逆ギレですよ(笑)。 そんなわがままな亭主ですけれど、カミさんはいま、やれることは全部やってくれています。 そろそろ“死ぬ準備”もしておかなきゃと思っています。息子は5歳で、本当に可愛い盛りです。でも、来年の6歳の誕生日までは、自分が生きられるかわからない。ランドセルを背負う姿を見るまでは、と思ってはいるんですが……。 それで、息子の毎年の誕生日に贈る手紙を書いておこうと思って。6歳用、7歳用、8歳用…と20歳くらいまでね。ずっといま書いているんです。だって、死んじゃったら書けないですから(笑) いまも、実は健常者のふりをしているだけなんですよ。 やっぱり、俺は末期がん。だから、ときには本当に発狂したくなったりもするんです。それが、いまの偽らざる心境なんです。 ボクシングに、僕は人生を教えてもらいました。その素晴らしい世界を俺もまた誰かに伝えたくて、いままでやってきた気がします。そのなかで出会えたさまざまな人たちとの交流が、僕にとっては宝でした。 “本当にありがとう”。 僕はボクシングにそう言いたいですね。 日本のアクションディレクター、コーディネーター、ボクシングコーチ。山形県酒田市出身。 山形県立酒田東高等学校卒業。大学中退。高校でボクシングを始め、ソウルオリンピックを目指したが、怪我のため引退。 映画監督を志し松竹シナリオ研究所入所。松竹大船撮影所等で映画・テレビドラマ、野村芳太郎監督の戦争ドキュメンタリー作品、七人のおたくなどの助監督を務めた。その後ボクサーの経験を生かし、ボクシングコーチ、アクションディレクターとなる。映画・テレビ・CM・舞台等でボクシングやアクション指導をしながら、プライベートレッスン専門で梅津ボクシング倶楽部を主宰し、ダイエット指導等も行っていた。 男子では瀬川設男・西澤ヨシノリ・大曲輝斉・杉田竜平・柴田明雄・内山高志らのチーフトレーナー

梅津正彦さんの残した最後の言葉【ボクシングコーチ】1968年12月13日~2013年7月23日

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「(来るの)遅かったな」「抱っこして」 (病院へ駆けつけた南海キャンディーズのしずちゃんへ) (最後の言葉) 日本のアクションディレクター、コーディネーター、ボクシングコーチ。山形県酒田市出身。 日本のアクションディレクター、コーディネーター、ボクシングコーチ。山形県酒田市出身。 山形県立酒田東高等学校卒業。大学中退。高校でボクシングを始め、ソウルオリンピックを目指したが、怪我のため引退。 映画監督を志し松竹シナリオ研究所入所。松竹大船撮影所等で映画・テレビドラマ、野村芳太郎監督の戦争ドキュメンタリー作品、七人のおたくなどの助監督を務めた。その後ボクサーの経験を生かし、ボクシングコーチ、アクションディレクターとなる。映画・テレビ・CM・舞台等でボクシングやアクション指導をしながら、プライベートレッスン専門で梅津ボクシング倶楽部を主宰し、ダイエット指導等も行っていた。 男子では瀬川設男・西澤ヨシノリ・大曲輝斉・杉田竜平・柴田明雄・内山高志らのチーフトレーナーを務め、高阪剛・TATSUJI・大渡博之らにもボクシングを指導したほか、女子では山崎静代(南海キャンディーズ)の専属トレーナーとして世界レベルで戦えるまでに育てた。

上田昭夫さんの残した言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日

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「日本一の思い出を話しても何の役にも立たない。」 日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。身長160cm、体重60kg。 1984年、母校の慶大監督に就任。同年度の関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、全国大学ラグビーフットボール選手権大会では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う同志社大学と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。 翌1985年度は後に日本代表選手となる松永敏宏、村井大次郎に加え、玉塚元一らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、リーグ戦グループとの交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した日本大学を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では大阪体育大学、早稲田大学を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した明治大学と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、1986年1月15日に行われる日本選手権の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。 迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもらたした。日本一となった試合の主な選手には、生田久貴、福澤克雄などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。

上田昭夫さんの残した最後の言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日

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最後のブログ 2015年06月30日 ああ・・・ 先週の木曜日から体調が良くなく・・・。 気温の変化に体が対応出来ない。 そこで、昨日から調整入院。 輸血をして、気温も安定。 楽になった。 日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。身長160cm、体重60kg。 1984年、母校の慶大監督に就任。同年度の関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、全国大学ラグビーフットボール選手権大会では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う同志社大学と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。 翌1985年度は後に日本代表選手となる松永敏宏、村井大次郎に加え、玉塚元一らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、リーグ戦グループとの交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した日本大学を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では大阪体育大学、早稲田大学を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した明治大学と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、1986年1月15日に行われる日本選手権の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。 迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもらたした。日本一となった試合の主な選手には、生田久貴、福澤克雄などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。

故人が残した名言集【7月23日】

上田昭夫さんの残した言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日 「日本一の思い出を話しても何の役にも立たない。」 最後のブログ 2015年06月30日 ああ・・・ 先週の木曜日から体調が良くなく・・・。 気温の変化に体が対応出来ない。 そこで、昨日から調整入院。 輸血をして、気温も安定。 楽になった。 日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。 身長160cm、体重60kg。 梅津正彦さんの残した言葉【ボクシングコーチ】1968年12月13日~2013年7月23日 遺言インタビュー  健康な人には、僕のいまの気持ちは正直、わからないと思うんですよね……。 余命があと30年あったはずが、突然、1年しかなくなった。 僕の1日は、普通の人の30日分なんですよ。 だから、僕が子供と長く遊びすぎると、カミさんが『もう、いい加減にしなさい』と叱るけど、『お前はこれから子供と何十年も一緒にいられるんだろ?  俺はあとどれだけいられるかわからないんだぞ!』って、逆ギレですよ(笑)。 そんなわがままな亭主ですけれど、カミさんはいま、やれることは全部やってくれています。 そろそろ“死ぬ準備”もしておかなきゃと思っています。 息子は5歳で、本当に可愛い盛りです。 でも、来年の6歳の誕生日までは、自分が生きられるかわからない。 ランドセルを背負う姿を見るまでは、と思ってはいるんですが……。 それで、息子の毎年の誕生日に贈る手紙を書いておこうと思って。 6歳用、7歳用、8歳用…と20歳くらいまでね。 ずっといま書いているんです。だって、死んじゃったら書けないですから(笑) いまも、実は健常者のふりをしているだけなんですよ。  やっぱり、俺は末期がん。 だから、ときには本当に発狂したくなったりもするんです。 それが、いまの偽らざる心境なんです。 ボクシングに、僕は人生を教えてもらいました。 その素晴らしい世界を俺もまた誰かに伝えたくて、いままでやってきた気がします。 そのなかで出会えたさまざまな人たちとの交流が、僕にとっては宝でした。  “本当にありがとう”。 僕はボクシングにそう言いたいですね。