故人が残した名言集【7月23日】
上田昭夫さんの残した言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日
「日本一の思い出を話しても何の役にも立たない。」
最後のブログ
2015年06月30日
ああ・・・ 先週の木曜日から体調が良くなく・・・。
気温の変化に体が対応出来ない。
そこで、昨日から調整入院。
輸血をして、気温も安定。
楽になった。
日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。
身長160cm、体重60kg。
梅津正彦さんの残した言葉【ボクシングコーチ】1968年12月13日~2013年7月23日
遺言インタビュー
健康な人には、僕のいまの気持ちは正直、わからないと思うんですよね……。
余命があと30年あったはずが、突然、1年しかなくなった。
僕の1日は、普通の人の30日分なんですよ。
だから、僕が子供と長く遊びすぎると、カミさんが『もう、いい加減にしなさい』と叱るけど、『お前はこれから子供と何十年も一緒にいられるんだろ?
俺はあとどれだけいられるかわからないんだぞ!』って、逆ギレですよ(笑)。
そんなわがままな亭主ですけれど、カミさんはいま、やれることは全部やってくれています。
そろそろ“死ぬ準備”もしておかなきゃと思っています。
息子は5歳で、本当に可愛い盛りです。
でも、来年の6歳の誕生日までは、自分が生きられるかわからない。
ランドセルを背負う姿を見るまでは、と思ってはいるんですが……。
それで、息子の毎年の誕生日に贈る手紙を書いておこうと思って。
6歳用、7歳用、8歳用…と20歳くらいまでね。
ずっといま書いているんです。だって、死んじゃったら書けないですから(笑)
いまも、実は健常者のふりをしているだけなんですよ。
やっぱり、俺は末期がん。
だから、ときには本当に発狂したくなったりもするんです。
それが、いまの偽らざる心境なんです。
ボクシングに、僕は人生を教えてもらいました。
その素晴らしい世界を俺もまた誰かに伝えたくて、いままでやってきた気がします。
そのなかで出会えたさまざまな人たちとの交流が、僕にとっては宝でした。
“本当にありがとう”。
僕はボクシングにそう言いたいですね。
「(来るの)遅かったな」「抱っこして」
(病院へ駆けつけた南海キャンディーズのしずちゃんへ)(最後の言葉)
日本のアクションディレクター、コーディネーター、ボクシングコーチ。山形県酒田市出身。
山形県立酒田東高等学校卒業。大学中退。
映画・テレビ・CM・舞台等でボクシングやアクション指導をしながら、プライベートレッスン専門で梅津ボクシング倶楽部を主宰し、ダイエット指導等も行っていた。
男子では瀬川設男・西澤ヨシノリ・大曲輝斉・杉田竜平・柴田明雄・内山高志らのチーフトレーナーを務め、高阪剛・TATSUJI・大渡博之らにもボクシングを指導したほか、女子では山崎静代(南海キャンディーズ)の専属トレーナーとして世界レベルで戦えるまでに育てた。
エイミー・ワインハウスさんの残した言葉【21世紀最高のシンガー】1983年9月14日~2011年7月23日
「自分に才能があるのは分かっている。でも歌う為に(神様に)ここに置かれたわけではないの。妻とママになって、家族の面倒を見る為にここに置かれたの。自分のやっていることは大好き。でもここで始まって終わるわけではないのよ」
「音楽をやってギグをプレイするのが大好きだし、それができることを凄く感謝している。でも正直言って、わたしはファン層のことを考えるようなタイプではないの。そういうことには興味ないのよ」
「正直言って、わたしは色々な音楽を聴いているわけではないの。ちょっと老人みたいなのよ。周りではやっていることはあまり意識していないの。クールで子供達が好きなのは知っているけれど、あまりピンとはきていないの。言ってること分かるかしら?60年代のドゥーワップ、ソウル、それにモータウンの女性グループは凄く聴いている…その姿勢や劇的な様子が好きなの。(でも)洗練されたグループはあまり好きじゃなかった。シュープリームスの大ファンではないしね。ゴールディー&ザ・ジンジャー・ブレッズのようなガレージ・ガール・グループが好きなの」
「もし自分でやっていなかったら、それを曲にすることなんてできない。自伝的なものでなければならないの。厄払いね。その中に自分の全てを注ぎ込んでいる。自分の経験を伝えられるこの表現手段がなかったら、道に迷っていたでしょう」
「わたしは複雑なコード構成にうんざりしていて、何かもっとダイレクトなものを欲していたの。50年代と60年代の女性グループをたくさん聴いていて。それらのシンプルさが気に入っていたの。何が言いたいのかはっきり分かる感じで。それでそういう方法で曲を書こうと思い始めたの」
「わたしは女の子っぽい女の子なの。この音楽だけなのよ、人生の中で唯一威厳を保っていられるのは。人生の中で堂々と振る舞いながら、『誰もわたしに触れることはできない。だって誰もわたしに触れることはできないのだから!』と言える、人生の中のただひとつの空間」
「音楽は人生で自分がすっかり正直になれる対象であり、だから時々歌いたくないと思う曲もある、それがあまりに生々しいから」
「わたしは運命を信じているし、全ての出来事には意味があると思っているけれど、神様がいるとは必ずしも思っていないの。でもカルマはすごく信じている。失礼な人達が周りにあまりに多くいるし、彼等には真の友達がいない。そして人生で一番の喜びをもたらしてくれるのは、人との関係…おかあさん、おばあちゃん、それから自分の犬。クツとバッグ以外では…ね」
「わたしは残りの人生をカヴァー・バンドで歌って過ごすことになったとしても、喜んでそうしたわ。今後何百万年、何十億年あっても、一連の(テレビ・タレント)ショウに出演することは絶対にないわ。だって音楽性は他の誰かを判断する為のものではないから。音楽は自分の中にあるもの。ああいったショウに出演する人達はクソだけど、それでも自分達がそうだとはっきり言われるのは、ダメージが凄く大きいと思う」
「6歳か7歳の時、カイリー・ミノーグが好きでマドンナに夢中だった。マドンナの『Immaculate Collection』は11歳くらいになるまで毎日聴いていた。その後ソルトン・ペッパーとTLCを発見したの。もう「ああ、なにこれ…これこそわたしの音楽だわ!」という感じだった。わたしと親友のジュリエットは生まれて初めてのバンド‘スウィート・ン・ サワー’を始めたの。ふたりはラッパーだったのよ。言うまでもなく、わたしは‘サワー’の方だったんだけどね」
「I LOVE YOU」
(最後の言葉)イギリスのソウルミュージック、ジャズ、R&Bのシンガーソングライター。
2003年にアルバム『フランク』をリリースしてデビュー。英国内で67万枚を超えるヒットとなり、一躍トップスターの一人となる。
ユードラ・ウェルティさんの残した言葉【マッケルヴァ家の娘】1909年4月13日~2001年7月23日
「すべてを知りつくしたなんて決して思わないことよ。」
「どんなに時間がかかっても、そんなの問題じゃない。大切なのは目標をもつこと。」
「くよくよ思い悩むのも、明るく前向きに考えるのも、活動量は同じなのよ。」
アメリカ合衆国の女性作家。
1936年最初の短編「旅するセールスマン」を雑誌に発表。1942年、1943年、1968年の3度にわたってオー・ヘンリー賞を受賞。1946年代表作『デルタの結婚式』、1954年中編「重い心」でウィリアム・ディーン・ハウエルズ・メダル受賞。1972年『マッケルヴァ家の娘』でピューリッツァー賞受賞。
平井収二郎さんの残した言葉【土佐潘士】1835年8月8日~1863年7月23日
辞世の句
嗚呼悲哉兮綱常不張
(ああ哀しいかな、綱常張らず)
洋夷陸梁兮辺城無防
(洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し)
狼臣強倔兮憂在蕭牆
(狼臣跋扈して、蕭牆に憂いあり)
憂世患國兮忠臣先傷
(世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく)
月諸日居兮奈我神皇
(月よ太陽よ、我が天皇をどうしようというのか)
幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。
1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿や薩摩藩、長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。
また、安政の大獄で処罰された水戸藩士鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。
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