投稿

ラベル(思想家)が付いた投稿を表示しています

二宮尊徳さんの残した言葉【二宮金次郎】1787年9月4日~1856年11月17日

イメージ
「積小為大」 (大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる。) 「万町の田を耕すもその技は一鋤ずつの功による。」 「人道は一日怠れば、たちまちすたれる。」 「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」 「心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず。」 「水を自分のほうに引き寄せようとすると向こうへ逃げてしまうけれども、相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。だから、人に譲らなければいけない。」 「あらゆる荒廃は心の荒蕪(こうぶ)から起こる。」 「善悪と言っても、天が決めたものではなく結局、人間にとって便利かどうかだけの話である。」 「すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び、買いて喜ばざるは道にあらず。貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。」 「貧富の違いは、分度を守るか失うかによる。」 「貧となり富となる。偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財は、富者の処に集まると思へども然らず。節約なる処と勉強する所に集まるなり。」 「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」 「キュウリを植えれば、キュウリと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである。」 「人々には、それぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として、劣っているところは友としてはいけない。人の短所を捨て、長所を友とするのだ。」 「生まれたからには学び続けなさい、そして学んだら必ず実行をしなさい。それが出来ない者は、生まれていないのと同じことです。そして、学ぶとは『道を知る』ということです。道を知り、その道を行動に移しなさい。」 「政事は豆腐の箱の如しである、箱が歪めば豆腐も歪む。」 「凡人は小欲なり。聖人は大欲なり。」 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して報徳思想を唱...

山岡鉄舟さんの残した言葉【一刀正伝無刀流の開祖】1836年6月10日~1888年7月19日

イメージ
鉄舟「修身二十則」 (鉄舟が満13歳の時に自身に課した人生訓) 嘘を言うべからず候 君の御恩は忘るべからず候 父母の御恩は忘るべからず候 師の御恩は忘るべからず候 人の御恩は忘るべからず候 神仏ならびに長者を粗末にすべからず候 幼者をあなどるべからず候 己れに心よからざることは、他人に求むべからず候 腹を立つるは、道にあらず候 何事も不幸を喜ぶべからず候 力の及ぶ限りは、善き方につくすべく候 他をかえりみずして、自分のよきことばかりすべからず候 食するたびに、稼穡(かしょく→種まきと収穫、農業)の艱難を思うべし、すべて草木土石にても、粗末にすべからず候 ことさらに着物を飾り、あるいはうわべをつくろう者は、心に濁りあるものと心得べく候 礼儀を乱るべからず候 何時何人に接するも、客人に接するように心得うべく候 己の知らざることは、何人にても習うべく候 名利のために、学問技芸すべからず候 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、あるいは笑うべからず候 己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず、すべて我が心に恥ざるに務むべく候 「一国を治めるものは、まず手近く自身からしなければならない。親子兄弟一族の治めがついて、さしつかえがないというに至ったならば、この秘法はたちまちに万機に応じることができる。」 「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」 「武士は義のためには、たとえ貧に処するも厭わず、不義のためには、富貴であっても好むところではない。」 「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える。」 「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」 「およそ大凡人たるものは、誠忠が肝要である。ゆえに時変に接しては死を見ること帰するがごとき確固たる心胆を動かさぬように鍛練が第一である。」 「人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。」 「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ。」 「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死...

二宮尊徳さんの残した最後の言葉【二宮金次郎】1787年9月4日~1856年11月17日

イメージ
「葬るに分を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本を植えれば足る。」 (最後の言葉) 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。

山岡鉄舟さんの残した辞世の句【一刀正伝無刀流の開祖】1836年6月10日~1888年7月19日

イメージ
「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」 (手にうちわを握り、座禅を組んだまま大往生をとげた。) (辞世の句) 幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩。一刀正伝無刀流の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

吉田松陰さんの残した辞世の句【松下村塾】1830年9月20日~1859年11月21日

イメージ
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」 (辞世の句 家族宛) 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 (私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこう。) (辞世の句 弟子宛) 日本の武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。

吉田松陰さんの残した言葉【松下村塾】1830年9月20日~1859年11月21日

イメージ
「だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。」 「親思う心にまさる親心。」 「満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。」 「利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。貧富によりて少しも心をみださないといふことである。」 「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである。」 「法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。」 「英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。」 「思想を維持する精神は、狂気でなければならない。」 「悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。」 「賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」 「成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。」 「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」 「死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし、生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」 「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点は、ないようにしたいと思う。」 「教えるの語源は『愛しむ』。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。」 「どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。こ...

ポール・ヴィリリオさんの残した言葉【思想家】1932年1月4日~2018年9月10日

イメージ
「メディアが政治と法と感情を超えた」 「Images contaminate us like viruses.」 (イメージはウィルスのように我々を汚染する。) フランスの思想家、都市計画家、ステンドグラス作家。 パリ生まれ。速度学を提唱し、テクノロジーやメディアの加速度的発達が人間の知覚や行動、社会システムをどのように変容させるのか分析を行った。 1932年パリ生まれ。父親はイタリア系で共産主義者。母親はブルターニュ系のカトリック教徒。戦時中ナントに疎開。第二次世界大戦後はパリの工芸学校に進学のかたわら聴講生としてソルボンヌ大学でのウラジミール・ジャンケレヴィッチやレーモン・アロンの哲学などの講義を受講していた。 その後、アルジェリア戦争に召集もされ除隊後、絵画やステンドグラスの作家として出発。 1958年から大西洋の壁、掩体壕といった戦争遺産などの調査研究を開始。1960年代から建築と都市計画業も開始し、聖ベルナデッタ教会を1966年に、トムソン・ヒューストンの航空宇宙研究センターなどを1969年に手がける。1969年からパリ建築学校ESAで教鞭をとる。 1975年の『トーチカの考古学』から本格的な執筆活動を始める。1987年、フランス設備住宅省と国土整備省、運輸の三省から著作活動に対して批評家国民賞を授与。

ジャン・バニエさんの残した言葉【思想家】1928年9月10日~2019年5月7日

イメージ
「成長は、私たちが自身の弱さを受け入れた時、始まるものです」 「愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを、気付かせてあげることです。人は、愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。」 スイスのジュネーブに生まれた、フランス系カナダ人のカトリックの思想家。知的障がいや発達障がいなどの知的ハンディを持つ人々と持たない人々の共同体であるラルシュの創設者、ならびに知的ハンディを持つ人とその家族や友人が定期的に集まり、支えあうネットワークである信仰と光 の共同創設者。