車谷長吉さんの残した言葉【直木賞作家】1945年7月1日~2015年5月17日
「私小説を書くことは罪深い振る舞いである。悪である。業である。(中略)私のように毒虫のごとき私小説を書いていると、まず一家眷属、すなわち血族の者たちに忌み嫌われている。」 「人間としてこの世に生まれて来たことが、すでにそれだけで重い罪である。私は言葉でそういう思想を語りたかった。すると人は『お前の小説を読むと、それだけで自分が人間であることが、つくづくいやンなるわ。』と私に背を向けるのだった。私はいやンなって欲しかったのである。」 「ほう、あんた地道に働くんが、いやなんやな。人にお祝いの会して欲しい人なんやな。芥川賞が欲しいんやな。 あんたは甲斐性なしの癖に、うまい物喰いたがる。」 「人間性という言葉が、随分よい意味に使われているが、併(しか)し人間性の根幹の一つには卑劣さがふくまれているのではないか。」 「人間の三悪。高い自尊心(プライド)、強い虚栄心、深い劣等感。」 「よい風景とは、歴史があって、いわれがあって、個人的に強烈な思い出がしみ付いた場所である。いくら美しい風景でも、歴史や謂れがないところは駄目だ。」 「人間の偉さ(崇高さ)には、どんなに偉い人であっても限りがあるが、人間の愚かさは底なし沼である。」 「私は若い頃から多くの女と知り合ったが、いまになって見ると、まぐわいをしないで別れた女がなつかしい。まぐわいをした上で別れた女は、私のことを怨んでいるであろうから、なつかしくない。その怨みを、私は藝のこやしにして来たので、罪悪感があるのだ。」 「無論、小説を書くことも、広告と同様、騙しである。しかし広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、小説の場合は、嘘を書くこと、つまり騙しそのものが目的である。その意味で、小説を書くという悪事には救いがない。」 「私小説は自己の存在の根源を問うものである。己の心に立ち迷う生への恐れを問うものである。そうであるが故に、生への祈りなのである。」 日本の作家、随筆家、俳人。本名、車谷 嘉彦。出生時は「くるまたに」だったが、祖父の一存で「しゃたに」と役所に登録されていた時期が長く、2007年、正式に「くるまたに」に戻した。筆名の「長吉」は唐代の詩人李賀にちなむ。妻は詩人の高橋順子、2017年に回想記『夫・車谷長吉』を刊行した。 兵庫県飾磨市出身。