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山本健一さんの残した言葉【ロータリーの父】1922年9月16日~2017年12月20日

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「部下がついてくるかどうかは、リーダーが苦しんだ量に比例する」 元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業に入社し、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功した自動車技術者。のち同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。 ロータリーエンジン開発までに、ダイハツ・ミゼットのヒットに触発され、対抗車の開発を社長が反対する中、秘密工場を作り試作。結果、K360の発売に結びついた。 1962年12月に、第二次技術研修団の一員としてNSUに訪問。当時の社長の松田恒次の意向で、1963年3月にロータリーエンジンの開発に専念するように指示。翌4月にロータリーエンジン開発部の部長に就任する。ロータリー開発部隊として47人が集結し、赤穂浪士にあやかり「ロータリー47士」と名乗った。ロータリーエンジン開発の背景には、当時審議されていた通商産業省の自動車業界再編計画で、東洋工業が他社に飲み込まれるかもしれない危機感があった。また、山本が「技術研究所」などロータリーエンジンが付かない名称を望んだが社長の松田恒次は「名称が大事」と突っぱねた。ロータリーエンジンの開発には心血を注ぎ、胃に穴があき、歯が抜け落ちる程、体調に変化があったものの、決して開発を諦める事をしなかった。 1967年5月、バンケル式ロータリーエンジンを実用化し搭載車コスモスポーツを発売。ロータリーエンジンの開発成功に対し、欧米の自動車会社は「広島の奇跡」と呼び、賞賛した。 1970年代後半、オイルショックによるロータリーエンジン車販売不振解消のため、燃費40%改善を目標にした「フェニックス計画」にも携わった。

山本清一さんの残した言葉【日本一の瓦葺職人】1932年11月1日~2018年12月12日

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「職人というのは、人知れず役に立ってればええんや。」 「できへんやつが一生懸命にやるほどきれいなものはない。できるからっちゅうて手を抜くと魂が入った仕事にならへん。」 「一生懸命にやってたら、神さんか何かわからんけど力を貸してくれるんやな。」 「まあ、90%は失敗するやろ。残り10%は勝算やのうて希望ですわ。」 日本の瓦工事技術者、日本伝統瓦技術保存会会長。奈良県生駒市に生まれる。奈良の寺院や姫路城の修理に携わった。 父は瓦を葺く職人で清一は尋常高等小学校卒業後に職人になり21歳まで父の下で仕事をする。その後、文化財の瓦葺きの棟梁の井上新太郎のもとで修行し、26歳で独立した。東大寺大仏殿や法隆寺金堂など多くの伝統的な建築物の復元、再建に取り組む。1960年、28歳で姫路城昭和大修理の瓦工事の棟梁が辞め次の棟梁に抜擢され務める。1963年、31歳で会社組織化し山本瓦工業株式会社を設立する。2000年に従来の瓦の問題点を解決した南都平瓦を開発し特許取得する。 1994年には文部大臣より、選定保存技術保持者「屋根瓦葺(本瓦葺)」に認定される。主に、法隆寺金堂、姫路城、東大寺大仏殿、薬師寺、唐招提寺金堂、平城宮跡朱雀門・大極殿、東本願寺、松本城の修復に携わる。1998年には労働大臣卓越技能者表彰、さらに、2001年には黄綬褒章、日本伝統瓦技術保存会3代目会長に就任する、2007年には旭日双光章を受章する。2011年姫路城の平成大修理の屋根瓦の工事を統括する棟梁に再度選ばれる。現役を続けるとともに次世代の育成に力を入れていた。