投稿

ラベル(5月26日)が付いた投稿を表示しています

木戸孝允さんの残した最後の言葉【偉人】1833年8月11日~1877年5月26日

イメージ
「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説論すべし」 (最後の言葉) 日本の武士(長州藩士)、政治家である。位階勲等は贈従一位勲一等であった。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。

木戸孝允さんの残した言葉【偉人】1833年8月11日~1877年5月26日

イメージ
「才子はその才気に自信を持って努力をしないが、愚かな者は自分の愚かさを知って、それなりに努力を加える。青少年のころの才子であるよりは、愚鈍であるほうがよいのである。」 「西郷、いいかげんにせんか!」 「人民は病人なり。政府は医者なり。」 「一橋の胆略決して侮るべからず、実に家康の再生を見るが如(ごと)けん。」 「己れの生き方に関わるような大問題を他人に聞くな。」 「大道行くべし、又何ぞ防げん。」 「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。」 「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ。」 日本の武士(長州藩士)、政治家である。位階勲等は贈従一位勲一等であった。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。

左卜全さんの残した最後の言葉【俳優】1894年2月20日~1971年5月26日

イメージ
「は〜い」 (死の床の際、最期を看取った妻の糸が「一郎さん」と呼びかけに、小さな声で応えた。) (最後の言葉) 日本の俳優、オペラ歌手。異母姉は三ヶ島葭子。

アラン・ビーンさんの残した言葉【宇宙飛行士】1932年3月15日~2018年5月26日

イメージ
「月の上に自分が立っていることが、現実でないように思われた。何度も私は月の上で独り言を言った。これは月で、あれは地球だ。私は確かにここにいるのだと。」 アメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士、技術者で、1969年11月、37歳の時に人類で4番目に月面を歩いた。

安崎暁さんの残した最後の言葉【小松製作所代表取締役】1937年3月3日~2018年5月26日

イメージ
秋冷の候 皆様ご清祥のこととお慶び申し上げます 私こと安崎暁は10月上旬、体調不良となり入院検査の結果全く予期せざることに胆嚢ガンが見つかり、しかも胆道・肝臓・肺にも転移していて手術は不能との診断を受けました。 私は残された時間をQuality of Life優先にしたく、多少の延命効果はあるでしょうが、副作用にみまわれる可能性のある放射線や抗ガン剤による治療は受けないことにいたしました 1961年コマツに入社し、1985年取締役となり、1995年には社長に就任、会長を経て2005年取締役を退任いたしました。その間40余年、皆様方には公私ともに大変お世話になり、誠に有難うございました。また、引退後も余生を共に楽しく過ごさせて下さいました多くの方々にも大変感謝いたしております。 つきましては、私がまだ元気なうちに皆様方に感謝の気持ちをお伝えしたく左記の通り感謝の会を開催することにいたしました。ご都合のつく方々にご参加いただきお会いできましたら私の最大の喜びでございます。 最後の言葉(日経の個人広告) 日本の実業家。小松製作所代表取締役社長や、日本建設機械工業会会長、国家公安委員会委員などを務めた。

安崎暁さんの残した言葉【小松製作所代表取締役】1937年3月3日~2018年5月26日

イメージ
「ビジネスマンとしての気力・体力・知力のピークは45歳というのが私の持論です。きっかけは、米国企業との提携交渉でした。そのとき、痛感しました。向こうは、だいたい経営トップが一人で交渉に顔を出し、一人で孤独な決定を下す。しかも24時間、365日、頭を回転させている。体力はもちろん、何としても計画を達成しようという気力や会社の将来を構想する知力の点においても、ある程度若くなければ太刀打ちできない。自分を振り返ってみても、45歳くらいが一番脂がのっているのではないか。」 「本当は社長の器なのに、部長とか課長を長くやらせていたのでは、会社の損失です。もっと大きく伸びるチャンスがあるのに、会社がその芽を摘んでしまっているわけです。」 「ビジネスリーダー選抜育成制度の卒業生300人には、いつでもコマツの社長が務まるというのは言いすぎですが、何人かは本当に自分が社長になったつもりで仕事に取り組んでいます。将来は、きっとこの300人の中からコマツの社長が誕生するでしょう。巨大企業では実現が難しくても、我々くらいの規模のメーカーで45歳の社長が誕生すれば、日本の産業界にもプラスだと思います。」 「社長時代に人材育成が最も重要な仕事だと考え、30代、40代を対象とするビジネスリーダー選抜育成制度を始めました。卒業生はすでに300人ぐらいいます。優秀な若手・中堅をいろいろな部署から引き抜いて、勝手が違うほかの部署に投げ込み、そこで苦労し、経験を積んでもらう。できれば、失敗してもらう方がいい。間違いなく将来の糧になります。」 「戦後の日本の競争力を思い返してみると、技術力とチームワーク、そして若さがあったと思います。そういう意味では、人にもよるので一概には言えませんが、お年寄りが権力を握ったままいつまでもやっていくのは、考え直さないといけない。私自身もそんなに長くやるつもりはありません。」 「うちではCEO(最高経営責任者)は社長ですから、私(会長)は取締役会の議長だけ務めて、経営会議にも出ません。寂しい気持ちがまったくないと言ったら嘘になりますが、決断というものは、たとえ間違っていたとしても一人で下す方がいい。私も前任の片田(哲也)さんからそうさせてもらっていました。私の言うことを聞かない人が社長になってくれてよかったと本当に思っています。」 日本の実業家。小松製作所代表取締

津本陽さんの残した言葉【直木賞作家】1929年3月23日~2018年5月26日

イメージ
「現代の人間と歴史上の人物は同じ血でつながっている。」 「事実とは往々にして『事実らしからぬ』ほどのドラマ性をもっているものなのである。」 「小説を書くうえで想像力は最も大切なものの一つだが、もう一つとても重要になるのが『自分自身の実体験』である。」 「『事実らしく見えるもの』を書くのではなく、できるだけ『事実』そのままを描き出すことだ。」 「完全に絶望するということは、もうそれ以上は落ちない『底』に着いたということ。つまり、本当の絶望は、壁を乗り越えるための復活の始まりでもある。」 日本の小説家。 本名、寅吉。

故人が残した名言集【5月26日】

津本陽さんの残した言葉【直木賞作家】1929年3月23日~2018年5月26日 「現代の人間と歴史上の人物は同じ血でつながっている。」 「事実とは往々にして『事実らしからぬ』ほどのドラマ性をもっているものなのである。」 「小説を書くうえで想像力は最も大切なものの一つだが、もう一つとても重要になるのが『自分自身の実体験』である。」 「『事実らしく見えるもの』を書くのではなく、できるだけ『事実』そのままを描き出すことだ。」 「完全に絶望するということは、もうそれ以上は落ちない『底』に着いたということ。つまり、本当の絶望は、壁を乗り越えるための復活の始まりでもある。」 日本の小説家。 本名、寅吉。 安崎暁さんの残した言葉【小松製作所代表取締役】1937年3月3日~2018年5月26日 「ビジネスマンとしての気力・体力・知力のピークは45歳というのが私の持論です。きっかけは、米国企業との提携交渉でした。そのとき、痛感しました。向こうは、だいたい経営トップが一人で交渉に顔を出し、一人で孤独な決定を下す。しかも24時間、365日、頭を回転させている。体力はもちろん、何としても計画を達成しようという気力や会社の将来を構想する知力の点においても、ある程度若くなければ太刀打ちできない。自分を振り返ってみても、45歳くらいが一番脂がのっているのではないか。」 「本当は社長の器なのに、部長とか課長を長くやらせていたのでは、会社の損失です。もっと大きく伸びるチャンスがあるのに、会社がその芽を摘んでしまっているわけです。」 「ビジネスリーダー選抜育成制度の卒業生300人には、いつでもコマツの社長が務まるというのは言いすぎですが、何人かは本当に自分が社長になったつもりで仕事に取り組んでいます。将来は、きっとこの300人の中からコマツの社長が誕生するでしょう。巨大企業では実現が難しくても、我々くらいの規模のメーカーで45歳の社長が誕生すれば、日本の産業界にもプラスだと思います。」 「社長時代に人材育成が最も重要な仕事だと考え、30代、40代を対象とするビジネスリーダー選抜育成制度を始めました。卒業生はすでに300人ぐらいいます。優秀な若手・中堅をいろいろな部署から引き抜いて、勝手が違うほかの部署に投げ込み、そこで苦労し、経験を積んでもらう。できれば、失敗してもらう方がい