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ナポレオン・ヒルさんの残した言葉【思考は現実化する】1883年10月26日~1970年11月8日

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「The No. 1 reason people fail in life is because they listen to their friends, family, and neighbors.」 (人々が失敗する最大の原因は友人、家族、隣人の言うことを聞くからである。) 「Whatever the mind of man can conceive and believe, it can achieve.」 (人の心が思い描き信じられることは、すべて実現可能である。) 「Don’t wait. The time will never be just right.」 (待っていてはだめだ。完璧な好機など永遠に来ない。) 「Start where you stand, and work whatever tools you may have at your command and better tools will be found as you go along.」 (今あなたが立っている 場所から、今持っている馴染みの道具を使って始めなさい。より良い道具は、あなたが進むにつれて現れるだろう。) 「Capability means imagination.」 (才能とは想像力のこと。) 「Goals are dreams with a deadline.」 (目標とは、締切期限付きの夢である。) 「A genius is simply one who has taken full possession of his own mind and directed it toward objectives of his own choosing, without permitting outside influences to discourage or mislead him.」 (単に天才とは、彼を落胆させ迷わせんとする外界の影響をゆるすことなく、自分の心を完全に手中に収め、それを自分自信で選んだ目的に注ぐ人物のことである。) 「The world has the habit of making room for the man whose actions show that he knows where he is going.」

ジューナ・バーンズさんの残した言葉【夜の森】1892年6月12日~1982年6月18日

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「To love without criticism is to be betrayed.」 (相手を批判するということを全然せずに、ただもう愛するということに夢中になっていると、必ず相手に裏切られることになる。) アメリカ合衆国の著作家。1910年代にグリニッジ・ヴィレッジで、さらに1920年代・1930年代にパリでボヘミアン的生活を送りながら執筆活動を続け、20世紀モダニズム英文学の発展に重要な役割を演じた。小説『夜の森』はT・S・エリオットの紹介にも助けられ、近代小説のカルト的作品となった。 レズビアンをテーマとした描写や独特の文体で今日でも光彩を放っている。バーンズの死後、その作品に関する興味が上がり、作品の多くが再版された。

櫻井孝昌さんの残した最後の言葉【ポップカルチャー研究家】1965年12月19日~2015年12月4日

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「……もっと売れないと俺が困る」 (事故当日、一緒にいた砂守岳央さんへ) (最後の言葉) 日本のポップカルチャー研究家、メディアプロデューサー。 早稲田中学校 、早稲田高等学校、 早稲田大学政治経済学部卒。光文社にて編集者として『赤瀬川原平の名画読本』など、ノンフィクション書籍の編集を担当。後、退社して、世界各地における日本発のポップカルチャー受容について研究した。 早稲田中学校 、早稲田高等学校(在学中の愛称は、”セコライ”)、 早稲田大学政治経済学部卒。光文社にて編集者として『赤瀬川原平の名画読本』など、ノンフィクション書籍の編集を担当。後、退社して、世界各地における日本発のポップカルチャー受容について研究した。外務省の派遣講師として世界各国で日本のロリータファッション等ポップカルチャーを日本文化として紹介する活動を行い、その経験を著書『アニメ文化外交』『世界カワイイ革命』にまとめた。

山口洋子さんの残した言葉【著作家】1937年5月10日~2014年9月6日

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「声で判断するの。声は決してごまかせない」 (いい男を見抜く方法を聞かれ) 日本の著作家、作詞家。1985年に直木三十五賞を受賞。愛知県名古屋市出身。京都女子高校中退。 1957年、東映ニューフェイス4期生に選ばれる。同期には水木襄・佐久間良子・室田日出男・曽根晴美・花園ひろみ・山城新伍がいた。 その後、女優をあきらめた山口は、東京・銀座でクラブ「姫」を開店。各界著名人を顧客として抱え、経営に手腕を発揮した。また、同店にはホステスとして、元ミス・ユニバース・ジャパンの飯野矢住代が勤めていた。 漫才師のハイヒールモモコは姪(兄の娘)。 1968年(昭和43年)頃から作詞活動を開始。「噂の女」「よこはま・たそがれ」「ふるさと」「夜空」「うそ」「千曲川」「夢よもういちど」「雨の東京」「ブランデーグラス」「北の旅人」「アメリカ橋」などの多数のヒット作があり、特に1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。作曲家平尾昌晃とのコンビはこの時代を代表するゴールデンコンビとして知られる。1980年代からは小説の創作活動も始め、1985年には『演歌の虫』、『老梅』で直木賞を受賞。 併せて、遠藤実が設立した日本音楽作家協会会長に就任後は協会を通じ、松井由利夫、冬樹かずみ等と後進の育成にも尽力した。

劉暁波さんの残した言葉【著作家】1955年12月28日~2017年7月13日

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「憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争を煽り、社会の寛容性と人間性を破壊し、1つの国家が自由と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい。」 「私に敵はいない」 「君の愛があるからこそ、明日を待つことができる」 中華人民共和国の著作家。元北京師範大学文学部講師。人権活動や民主化運動に参加し、度々投獄された。 4度目の投獄中の2010年、ノーベル平和賞を受賞。服役中のまま2017年に死去した。

劉暁波さんの残した最後の言葉【著作家】1955年12月28日~2017年7月13日

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「あなたはしっかり生きなさい」 「幸せに暮らして」 (妻へ) (最後の言葉) 中華人民共和国の著作家。元北京師範大学文学部講師。人権活動や民主化運動に参加し、度々投獄された。