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沖田総司さんの残した辞世の句【新撰組一番隊組長】1844年~1868年7月19日

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「動かねば 闇にへだつや 花と水」 (辞世の句) 幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。 本姓は藤原を称した。 諱は春政、後に房良。 幼名は宗次郎。

沖田総司さんの残した言葉【新撰組一番隊組長】1844年~1868年7月19日

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「刀で斬るな、体で斬れ」 「先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」 「俺は猫も斬れない。」 「大刀を損じれば小刀を抜きなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手でも戦いなさい 。戦場では誰も待ってはくれないのですよ。」 幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。 本姓は藤原を称した。 諱は春政、後に房良。 幼名は宗次郎。

土方歳三さんの残した辞世の句【新撰組副長】1835年5月31日~1869年6月20日

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「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」 (辞世の句) 「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」 (辞世の句) 「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」 (辞世の句) 幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。

土方歳三さんの残した言葉【新撰組副長】1835年5月31日~1869年6月20日

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「一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私にとって何の意味もない。」 「将来われ武人となりて、名を天下に揚げん。」 「知れば迷ひ 知らねば迷はぬ 恋の道。」 「我この柵にありて、退く者を斬る!」 「梅の花 壱輪咲いても梅は梅。」 「男の一生は、美しさをつくるためのものだ。俺はそう信じている。」 「昨日の夕陽が、きょうも見られるという具合に、人の世はできないものらしい。」 「未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある。」 「よいか、人を斬る剣は所詮は度胸である。剣技はつまるところ、面の斬撃と、突き以外にない。習い覚えた区々たる剣技の末梢を忘れることだ。」 「皆、自分の道をゆこう。」 (新撰組の解散の時の言葉) 「勝てるか勝てないか、やってみなければわからないよ。おらァもう、勝敗は考えない。ただ命のある限り戦う。どうやらおれのおもしろい生涯が、やっと幕をあけたようだ。」 「喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。死んだと思いこむことだ。そうすれば勝つ。」 「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。」 「あんた(近藤勇)は総師だ。生身の人間だと思っては困る。奢らず、乱れず、天下の武士の鑑であってもらいたい。」 幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。

土方歳三さんの残した最後の言葉【新撰組副長】1835年5月31日~1869年6月20日

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「世に生き飽きた者だけ、ついて来い。」 (最期の突撃の時の言葉) 幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。

近藤勇さんの残した辞世の句【新撰組】1834年11月9日~1868年5月17日

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「靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩」 (敵になびいて言うべきことはない。生きることを捨て義を取ることは、私が尊ぶところである。斬首を快く受け入れよう。一死をもって主の恩に報いるのだ。) (辞世の句) 「孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔」 (軍が孤立し援軍も絶えて囚われの身となった。主が気にかけてくれたことを思い出すと涙がさらに流れてくる。一面に溢れる忠誠心で節義に殉じる。唐の時代の忠臣 張巡こそが私の同志である。) (辞世の句) 江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜という。慶応4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。

近藤勇さんの残した言葉【新撰組】1834年11月9日~1868年5月17日

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「俺は武士よりも武士らしい武士になる!」 「お金で買えぬものは 信用。」 「聞いてならぬものは 人の秘密。」 「笑ってならぬものは 人の失敗。」 「通してならぬものは 我意。」 「繰返してならぬものは 過失。」 「 人にあたえるものは 人情。」 「捨ててならぬものは 義理。」 「忘れてはならぬものは 恩義。」 「井の中の蛙大海を知らず。されど空の青さを知る。」 「生きようという念が一分でもあっては、どうにもなりませんな。不思議なもので、死ぬ気になると、周りの景色、つまり敵の群れのことですが、その虚が見えてきます。その虚へ突っ込むのです。なんのかんの言っても、その一言ですな。」 「英雄ではない者が真の英雄である。」 「手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる。」 「ながなが御厄介に相成った。」 「只まさに一死をもって君恩に報いん」 江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜という。慶応4年からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。