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チャーリー・チャップリンさんの残した言葉【喜劇王】1889年4月16日~1977年12月25日

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「The hate of men will pass, and dictators die, and the power they took from the people will return to the people and so long as men die, liberty will never perish.」 (連中の恨みもやがて過ぎ去り、独裁者らも死んでしまう。そして連中が人々から奪った力は、人々に戻される。そして連中が死んでしまう限り、自由が失われることは決してない。) 「We all want to help one another. Human beings are like that. We want to live by each other’s happiness, not by each other’s misery.」 (私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。) 「Words are cheap. The biggest thing you can say is ‘elephant’.」 (言葉はとるにたらないものだ。一番大きくても「象」としか言えない。) 「I am at peace with God. My conflict is with Man.」 (私は神とは仲が良い。私が対立しているのは人間だ。) 「I have no further use for America. I wouldn’t go back there if Jesus Christ was President.」 (私はもうアメリカに用はない。もしイエスが大統領であっても、私はあそこには戻らない。) 「This is a ruthless world and one must be ruthless to cope with it.」 (この世界は無情な世界です。人はそれに対処するために無情でなければなりません。) 「I do not have much patience with a thing of beauty that must be explained to be understood. If it does need additional inte

益田喜頓さんの残した言葉【元祖ボードビリアン】1909年9月11日~1993年12月1日

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「本当にこっけいな人は喜劇役者にはなれませんね」 日本の俳優。昭和期を代表するコメディアンである。芸名の「ますだきいとん」は三大喜劇王の一人、「バスター・キートン」のもじり。 1930年、小樽の五十嵐財閥経営の貿易会社に入社し、同系列資本の札幌の「赤い風車レビュー団」を手伝っていたが、翌年解散したので、上京し、吉本興業に入社し、「花月劇場」でショーに出演する。 1936年、川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成し、クラシック、ジャズから流行歌まで様々な替え歌やナンセンスギャグ、パロディなどで一世を風靡する。なお、芝利英(坊屋三郎の弟)とは中学の同級生。「あきれたぼういず」での益田の得意技はヨーデルであった。 1939年、一旦は新興キネマ演芸部の引き抜きに応じ同社に移籍するが、結局新興との契約を破棄し、「あきれたぼういず」を脱退する。第二次世界大戦中の1942年に、木村恵吾監督の『歌う狸御殿』に出演し、キートンばりの演技を披露した。「益田喜頓一座」を旗揚げするが大阪で連合国軍機の空襲にあい解散する。 戦後、1946年に、坊屋三郎、山茶花究と「あきれたぼういず」を再結成するが、1951年に解散。その後、映画を中心に活躍する。 1957年に、東宝演劇部に入り、ミュージカルにも積極的に出演し、特に『マイ・フェア・レディ』(1963年)のピカリング大佐役が知られる。また、『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、1967年の初演以来907公演に司祭役で出演し、代表作となった。

ジェリー・ルイスさんの残した言葉【喜劇俳優】1926年3月16日~2017年8月20日

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「才能を発揮し、エネルギーを使い続ければ、常に若々しくいられる。ほとんどの人は、エネルギーも必要とせずに行動し、心と体を委縮させてしまう。」 「僕の見解では失敗する人と成功する人の違いは、物事を『だいたい』正しくやるか、『きっちり』正しくやるかだ。」 「人生で成功するために大切なのは、才能やチャンスなどではなく、実のところ集中力と忍耐力しだいだ。」 アメリカ合衆国の喜劇人、俳優、映画プロデューサー、脚本家、映画監督。本名、ジョーゼフ・レヴィッチ。 スラップスティックなユーモアが持ち味で一時代を築く。 筋ジストロフィー患者の社会参加と治療費捻出、ならびに筋ジストロフィー協会の活動の啓蒙を念頭において1966年から「レイバー・デイ・テレソン」と題したチャリティーコンサートを開催し、全米にテレビ中継。2010年まで45年間担当した。

清川虹子さんの残した言葉【喜劇女優】1912年11月24日~2002年5月24日

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「どんなにつらくても5年はやりなさい。3年で分かったつもりになっちゃだめ。その後の2年が大切なのよ。」 日本の喜劇女優。千葉県東葛飾郡松戸町出身。淡路尋常小學校卒業、神田高等女學校中退。

藤山寛美さんの残した言葉【喜劇俳優】1929年6月15日~1990年5月21日

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「喜劇だからといって何しても笑わせばいいということではない」 日本の喜劇役者。戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者であり、数多くの名作を残した。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。 女優の藤山直美は娘。俳優の藤山扇治郎は孫。

由利徹さんの残した言葉【喜劇俳優】1921年5月13日~1999年5月20日

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「オシャ、マンベ」 日本の喜劇俳優。本名:奥田 清治。