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ハーバート・スウォープさんの残した言葉【ジャーナリスト】1882年1月5日~1958年6月20日

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「I can’t give you a sure-fire formula for success, but I can give you a formula for failure: try to please everybody all the time.」 (成功するための秘訣を教えることはできないが、失敗するための秘訣を教えることはできる。常に誰もを喜ばそうとすることである。) 「Don't forget that the only two things people read in a story are the first and last sentences. Give them blood in the eye on the first one.」 (人が読むのは2行だけだということを忘れるな、最初と最後の文だ。最初の文に血肉を注げ。) 米国の編集者、ジャーナリストであり、アルゴンキンラウンドテーブルに親しみを持っていました。スウォープは彼のキャリアのほとんどをニューヨークワールドで過ごしました。彼はピューリッツァー賞を受賞した最初で3回の受賞者でした。

デイヴィッド・ブリンクリーさんの残した言葉【ジャーナリスト】1920年7月10日~2003年6月11日

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「A successful man is one who can lay a firm foundation with the bricks others have thrown at him.」 (成功者とは、人が彼に投げつけたレンガを使って堅固な基礎を築いた人である。) 1943年から1997年までのキャリアで、NBCとABCのアメリカ人ニュースキャスターでした。

大宅壮一さんの残した言葉【一億総白痴化】1900年9月13日~1970年11月22日

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「テレビが生まれた時、一億総白痴化が始まる」 「自分たちの生活は、最小限に切り詰めて、余分なものは人に施せ。人間として生まれた以上は、できるだけの仕事をして死にたい。」 「50人味方がいて、50人が敵。それでいいじゃないか。全部を味方に引き入れることなんて、できっこない。」 「実生よりは、接木の方によい実のなることが多い ―新しい祖国をつくる人々に。」 「駅弁を売るところに大学あり。」 日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。兄の孫は医師の稲本潤。

大宅壮一さんの残した最後の言葉【一億総白痴化】1900年9月13日~1970年11月22日

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「おい、だっこ」 (死の直前に妻へ) (最後の言葉) 日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。兄の孫は医師の稲本潤。

ドロシー・ディックスさんの残した言葉【ジャーナリスト】1861年11月18日~1951年12月16日

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「We are never happy until we learn to laugh at ourselves.」 (自分のことを笑えるようになるまでは、決して幸せにはなれない。) 「Women whose eyes have been washed clear with tears get broad vision.」 (涙で目が洗えるほどたくさん泣いた女は、視野が広くなるの。) 「There is no weapon in the feminine armory to which men are so vulnerable as they are to a smile.」 (女が持っている武器の中で、笑顔にまさるものはないわ。男は女の笑顔にすごく弱いのよ。) 「Nobody wants to kiss when they are hungry.」 (お腹がすいているときにキスがしたい女なんていないわ。) 「It is a queer thing, but imaginary troubles are harder to bear than actual ones.」 (奇妙なことだけど、現実の問題よりも想像上の心配事のほうが耐え難いのです。) 「I have learned to live each day as it comes, and not to borrow trouble by dreading tomorrow. It is the dark menace of the future that makes cowards of us.」 (わたしはその日その日をあるがままに生きようとしてきました。そして明日におびえず、無駄な心配をしないようにしてきたのです。わたしたちを臆病にさせるのは、将来への暗い見通しなのですから。) 「You never saw a very busy person who was unhappy.」 (すごく忙しそうにしている人で、不幸だった人は見たことがないわ。) 「I stood yesterday. I can stand today. And I will not permit myself to think about what migh

ウッドロー・ワイアットさんの残した言葉【ジャーナリスト】1918年7月4日~1997年12月7日

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「A man falls in love through his eyes, a woman through her ears.」 (男は目で恋に落ち、女は耳で恋に落ちる。) イギリスのジャーナリスト。

ヘレン・ローランドさんの残した言葉【ジャーナリスト】1875年~1950年

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「To be happy with a man you must understand him a lot and love him a little. To be happy with a woman you must love her a lot and not try to understand her at all.」 (彼と幸せでいたいのなら、彼を深く理解し、少しだけ愛すこと。彼女と幸せでいたいなら、彼女を深く愛し、彼女を理解しようとしないこと。) 「When a girl marries, she exchanges the attention of many men for the inattention of one.」 (結婚する娘は、多くの男の関心を一人の男の無関心と交換する。) 「男は、最初のキスは盗みます。二度目のキスはせがみます。三度目のキスは要求します。四度目のキスは引き受けます。五度目のキスは受け入れます。それ以後のキスは、すべて耐え忍びます。」 「結婚する前、男はあなたの言った言葉を夜中にあれこれと考えて一晩眠れずに過ごすが、結婚した後は、あなたの話がまだ終わらないうちに眠ってしまうものなんです。」 「男は別れの言い方が分からない。女はそれを言うべき時が分からない。」 「ファーストキッスは、女にとっては始まりの終わりにすぎないが、男にとっては終わりの始まりである。」 ニューヨークの新聞社でジャーナリストとして活躍。ウィットに富んだコラムを得意とし、男女関係に関する書籍も出版されている。

ダフネ・カルーアナ・ガリジアさんの残した最後の言葉【ジャーナリスト】1964年8月26日~2017年10月16日

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「あちこちに不正を行っている人たちがいる。事態は深刻だ」 (死の30分前にブログに) (最後の言葉) マルタの調査報道ジャーナリスト。 パナマ文書流出によって発覚した、マルタの首相ジョゼフ・ムスカットの妻ミシェル・ムスカット、同国官房長官コンラッド・ミッツィや首席補佐官キース・シェンブリの汚職疑惑を追及してきた。また、2014年から国外の富裕層向けにマルタの市民権および旅券を高額で販売し始めた問題とパナマ文書との関連をとりあげていた。アメリカ合衆国の政治ニュースサイトポリティコは、ガリチアを「2017年最もヨーロッパに衝撃を与えた28人」の1人に挙げた。他方、与野党の政治家は彼女を名誉棄損で提訴していた。 2017年9月初め、自身のブログに「命を脅かされている」と記し、10月には脅迫を受けていると警察に相談し、10月16日、自宅近くで自動車に仕掛けられた爆弾の爆発により死亡した。

金子哲雄さんの残した最後の手紙【流通ジャーナリスト】1971年4月30日~2012年10月2日

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最後の手紙 このたびは、お忙しい中、私、金子哲雄の葬儀にご列席賜り、ありがとうございました。今回、41歳で、人生における早期リタイア制度を利用させて頂いたことに対して、感謝申し上げると同時に、現在、お仕事等にて、お世話になっている関係者のみなさまに、ご迷惑おかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。申し訳ございません。  もちろん、早期リタイアとたからといって、ゆっくり休むつもりは毛頭ございません!第二の現場では、全国どこでも、すぐに行くことできる「魔法のドア」があると伺っております。そこで、札幌、東京、名古屋、大阪、松山、福岡など、お世話になったみなさまがいらっしゃる地域におじゃまし、心あたたまるハッピーな話題、おトクなネタを探して、歩き回り、情報発信を継続したい所存です。 このたび葬儀を執り行うにあたりまして葬儀社のセレモニーみやざき 宮崎美津子さまには生前より真摯に相談にのって頂きました。また、自分の歩んできた道とゆかりのある港区東麻布を終の棲家とすることをお許しいただきました浄土宗 心光院 御住職 戸松義晴先生には公私にわたり、死生観などのアドバイスをちょうだいしました。この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。 最後になりますが、本日、ご列席下さいました、みなさまの健康とご多幸を心よりお祈りしております。41年間、お世話になり、ありがとうございました。  急ぎ、書面にて御礼まで。 平成24年10月1日 経済ジャーナリスト 金子哲雄 日本の流通ジャーナリスト、プライスアナリスト、中小企業診断士。各種メディアに登場する際には、肩書きを「流通ジャーナリスト」に統一していた。マネージメント事務所は株式会社オフィス・トゥー・ワン。 千葉県生まれの神奈川県横浜市育ち。子供の頃より、スーパーマーケットのチラシを比較するのが好きだった。そのことが流通ジャーナリストになる理由になった。慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学文学部へ進学。姉二人と弟一人がいたが、いずれも幼くして病死したため、姉弟のぶんも生きようと意識していたという。 大学卒業後の1994年に、株式会社ジャパンエナジーへ入社した。同社と競合する石油会社系列のガソリンスタンドを対象に、ガソリンなどの店頭価格調査に従事していた。しかし、10億円以上の資産を持つ顧客との

金子哲雄さんの残した最後の言葉【流通ジャーナリスト】1971年4月30日~2012年10月2日

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「稚ちゃん、、、俺もう厳しいと思う。もうお別れだね。」 (妻へ) (最後の言葉) 日本の流通ジャーナリスト、プライスアナリスト、中小企業診断士。各種メディアに登場する際には、肩書きを「流通ジャーナリスト」に統一していた。マネージメント事務所は株式会社オフィス・トゥー・ワン。 千葉県生まれの神奈川県横浜市育ち。子供の頃より、スーパーマーケットのチラシを比較するのが好きだった。そのことが流通ジャーナリストになる理由になった。慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学文学部へ進学。姉二人と弟一人がいたが、いずれも幼くして病死したため、姉弟のぶんも生きようと意識していたという。 大学卒業後の1994年に、株式会社ジャパンエナジーへ入社した。同社と競合する石油会社系列のガソリンスタンドを対象に、ガソリンなどの店頭価格調査に従事していた。しかし、10億円以上の資産を持つ顧客との人脈を築いたことなどをきっかけに、入社からわずか1年でコンサルタントとして独立。1999年からは、「流通ジャーナリスト(兼プライスアナリスト)」という肩書きで、価格調査のセンスやノウハウを生かした記事を流通専門誌や女性誌へ執筆するようになった。小沢一郎政治塾の4期生だった。2009年、京都産業大学大学院経済学研究科(通信教育課程)を修了。 2008年頃から、テレビ・ラジオへの出演を開始。2010年には、レギュラー番組4本の出演を果たした。 一般社団法人・丸の内買物研究所の主席研究員を務めた。かつては自身の造語である「国際値切リスト」という肩書を用いていた。 主な著書に、『「値切り」のマジック』(講談社)・『超三流主義』(扶桑社)・『「激安」のからくり』(中公新書ラクレ)などがある。 同業者の間では、通常の氏名・連絡先に加え、似顔絵・スケジュール・月ごとに更新されるプロフィールなどを記入し通常サイズより2倍横長の、週替わりの手製の名刺が評判だった。

岸朝子さんの残した言葉【食生活ジャーナリスト】1923年11月22日~2015年9月22日

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「命は食にあり。」 「辛いことも数多くありました。そんな時いつも私を励ましてくれたのが、『嫌なことは夜、布団の中で考えないこと。太陽の下で考えれば何事も明るくなる』という(香川)綾先生の言葉でした。」 「もちろん先天性の糖尿病もありますが、それにしても糖尿病が低年齢化しているのは、やはり食習慣が影響しているのは否定できないでしょう。」 「以前、新聞のコラムにサッカーのトルシエ元日本代表監督が『日本人選手の体力のなさは、コンビニ弁当に由来している』といったことを書かれていて、それだけにちゃんと警告を発する人がいるのはうれしいですね。」 「PTAに呼ばれて講演することもありますが、私が言っているのは、『一品でもいいから手作りのものを食べさせてください』ということです。」 「高校生のみなさんも『あれがいい。これがいい』じゃなく、まず出てきたものを食べてみる。おいしかったら実際につくってみる。つくると楽しいものです。」 「イライラしていると、心だけを問題にしがちです。でも、そういうときにご飯をきちんと食べてほしいです。」 「お酒を飲み始めたのは、主婦の友社にいた頃からです。おじさんたちに負けてはいられないと頑張って、お酒の席では一升瓶の半分ぐらい飲んでいました」 「それまでは料理人は軽く見られていましたけど、『料理の鉄人』のおかげで、料理人の志望者が増えたそうです。」 「栄養学というのは、病人食とか病態栄養とか、妊産婦の栄養とか、要するに科学的なこと、いかに食べ物が体に大事かということを学ぶわけですが、あくまでも実践あっての学問なんですね。」 「動物性のたんぱく質源を摂り過ぎるとイラつくのよ。」 「食卓っていうのは、会話も大事だし、『同じ釜の飯を食う』という言葉が昔からあるけれど、そういうことで人と人とは通じ合うものだと思うの。」 「料理を作れない栄養士、多いですよ。カロリー計算ばっかりしてて、でもそれはつじつま合わせだから、すごくまずい献立だったりするの。」 「何を食べてもよいのです。ただ、食べ過ぎず、体に必要なものをきちんととることが大切です。」 「たばこも好きですが周りがうるそうございますので……コーヒーを飲む時に一服するくらいで、なかなか吸わせてもらえません。」 「『食は生命』という言葉は、もう私にとってはおまじないのようなものです。生

岸朝子さんの残した最後の言葉【食生活ジャーナリスト】1923年11月22日~2015年9月22日

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「佃煮」 (最後の食事) 日本の料理記者、食生活ジャーナリスト。旧姓は宮城。 1993年から6年間、フジテレビ系列の人気番組『料理の鉄人』に審査員としてレギュラー出演。「料理記者歴40年」が肩書きだった。試食の際の「おいしゅうございます」という表現がブームとなる。同じく『料理の鉄人』でレギュラー審査員を務めた食物史家の平野雅章とは、主婦の友社時代の同僚である。

山本美香さんの残した言葉【ジャーナリスト】1967年5月26日~2012年8月20日

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「問題の正解は一つではないのです。」 「世界の安定はつながっている。日本にいる人にとっても、遠い国の人ごとではないのです。生まれた場所、時代が違うだけで、同じ人間がひどい目にあっていることを、ちゃんと見てほしい。想像してほしい。」 日本のジャーナリスト。ジャパンプレス所属のジャーナリストとしてイラク戦争など世界の紛争地を中心に取材し、ボーン・上田記念国際記者賞特別賞、日本記者クラブ賞特別賞などを受賞した。2012年のシリアでの取材中、政府軍と思われる部隊の銃撃により殺害された。

竹村健一さんの残した言葉【ジャーナリスト】1930年4月7日~2019年7月8日

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「私は劣等感を肯定し、駄目な俺が失敗してもともとやという居直り精神から再出発した。小さなプライドを捨てた。見栄や気負いもなく、無欲恬淡に手当たり次第のことをやってきた。他人に笑われることを恐れなくなったおかげで、本当にいろいろなことができた。」 「失敗したら大変だという意識ばかりが先に立って、目の前にやりたいことがあっても、なかなか手を出せないということになる。見栄や外聞を気にしていても、それが通用しているうちはまだいい。しかし、かならず壁にぶつかるものだ。壁にぶつからないようにするためには、じっと動かずにいるか、山奥に逃げ込んで世捨て人になるしかない。」 「人間は誰だって劣等感を持っている。他人に引け目を感じる部分を必ず持っている。他人に引け目を感じる部分を必ず持っている。事実は事実として、はっきりそう認めてしまえばいい。居直るのだ。ところがたいていの人は、事実を事実と認めたがらない。あるいは事実を隠し通そうと努力する。」 「あたり前のことをやっていては駄目な時代になった。お客さんもよく見ていますからね。」 「あり余る時間の中で何かをやったところで、それは暇潰しにしかならないだろう。忙しい時間をやりくりして、本当にしたいことをやるからこそ、そのひとときを心から楽しむことができる。それが、本当の『ゆとりある人生』ではないだろうか。」 「人間の大きさは、プライドに比例すると思う。小さなことを気にしたり、小さなことで傷ついたりするのは、プライドが低い証拠だ。プライドが低ければ低いほど、世にプライドを傷つける種も多いことになる。たとえば『自分はいかなる場合でも、決して人にバカにされたくない』と考えていたとしても、世にあるかぎり、それは不可能に近い。道を歩いていて、つまづいて転んでも、笑う人は笑うのだ。『そんな連中に笑われたっていい。たかがつまずいただけではないか。』そう思ったとき、プライドはぐんと高くなったことになる。今度他人がつまずくのを見たら、『大丈夫ですか?』と声をかけたい心境にもなろう。」 「棚からボタモチが落ちてくるのを待っているのは、まだるっこしい。第一、いつまでたっても落ちてこないかもしれない。ちょっと背伸びをして、棚の上を眺めてみよう。そこにボタモチがあるなら、踏み台か何か持ってきて、ひと足早くいただこうではないか。」 「『棚の上のボタモチ』

吉岡逸夫さんの残した最後の言葉【ジャーナリスト】1952年1月22日~2018年2月13日

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「たくさんの方々が周りに集まってきてくれて、世話を焼いてくれるなんて、僕はなんて幸せ者だろう。僕は全部すべきことはした。今は死ぬのにちょうどいい。」 (最後の言葉) 日本のジャーナリスト。青年海外協力隊でエチオピアで活動後、カメラマン、ジャーナリストとして、主に海外で活動。桜美林大学非常勤講師。青年海外協力協会理事。

岩見隆夫さんの残した言葉【ジャーナリスト】1935年10月6日~2014年1月18日

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「人を思いやることができる政治家をかぎわけるのが仕事だと思ってます。」 日本のジャーナリスト、政治評論家。毎日新聞社特別顧問。

竹田圭吾さんの残した言葉【ジャーナリスト】 1964年12月30日~2016年1月10日

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「自分の頭で考え、自分の言葉で表現してこそ、その人のオリジナリティになり得て、相手の心にも届くのです。」 「パッション、執念が重要です。何かしらの企画を提案した場合、一度や二度認められなくても手を変え品を変え、二度、三度とアタックしてみる。それくらいの熱意があれば、人を動かす力が言葉にもこもります。」 「世の中のほとんどすべてのことは白黒に単純化できないグレー」 「『投票率が低い』イコール『政治に無関心』ということではないと思いますよ」 「病気になったせいもあって、口には出さないけど、頭の中では、1日2回ぐらい愛していると言っていて、口に出して、私はそうでもないと言われたらショックだから言わない。じゃあ、今言っていいですか?愛してるよ!」 日本のジャーナリスト。2001年から2010年まで『ニューズウィーク日本版』編集長を務めた。

兼高かおる さんの残した言葉【ジャーナリスト】 1928年2月29日~2019年1月5日

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「日本って恵まれたすごくいい国なんですよ。ところが島国なものだから、それがわかっていないんです。ほかがよく見えて、自分のところのよさが見えていない。マナーにしろ文化にしろ、自分のところのよさをきちんと守っていかないと。1000年の昔から素晴らしい文学もあれば、文化もある。なのに世界でも数少ないそんな文化を、どんどんと壊しています。くだらない国にしちゃったら、もったいないですよ。」 「人はみんな同じだなんておっしゃる方がいますが、祖先から住んでいる土地によって、人種、宗教によってそれぞれ違う。そういう認識を持って接することが大切です。」 日本のジャーナリストである。日本旅行作家協会名誉会長。 兵庫県神戸市生まれ。1946年香蘭女学校卒業後、1954年ロサンゼルス市立大学に留学。その後ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍する。海外取材が多く、150カ国以上に渡航したことで知られる。