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米長邦雄さんの残した言葉【さわやか流】1943年6月10日~2012年12月18日

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「最終的に頼れるのは、自分自身の力だけ」 「前に進もうとしなければ、後退してしまうものなんです」 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」 「一番いい薬というのは、『お前は天才だ、才能がある』という、この一言なんです」 「男の約束は法律に優先する」 「「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!(中略)オマ◯コを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」」 将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代6位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段。2003年12月、引退。日本将棋連盟会長。 2003年11月、紫綬褒章受章。2013年1月、旭日小綬章受章。 北陸先端科学技術大学院大学特任教授。 2004 - 2005年に、ニッポン放送の携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。 自他共に認める性豪として知られるだけに、前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。その心の機微が闘病記である著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。 一番弟子の伊藤能が三段リーグで不振に陥っていた頃に発した言葉が、「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!(中略)オマ◯コを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」である。これが伊藤の闘志に火をつけ、三段リーグを2位で卒業し、四段昇段を果たした。

二上達也さんの残した言葉【将棋棋士】1932年1月2日~2016年11月1日

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「大山さんの負けじ魂は尋常ではなかった。私は将棋は技術の勝負だととらえていたが、大山さんは人間対人間の勝負にもちこもうとしていたのである。私の指し手よりも私という人間を研究していた」 「若手・中堅の棋士たちが将棋研究に打ち込む熱心さをもう少し将棋普及のためにも積極的に向けてもらえればいいのですが」 「ここは師匠の意地を見せてやろうと気合を入れたが、結果は私の完敗だった。このとき引退を決意した」 (弟子の羽生善治と初対戦で完敗) 将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退。 1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた。加藤治郎・原田泰夫の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。 弟子に羽生善治がいる。 棋風は居飛車の攻め将棋。相掛かりガッチャン銀戦法は二上定跡として有名である。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した。塚田は、自身の師匠である花田長太郎と塚田を足して2で割った棋風と語った。大山によれば振り飛車を嫌っていたとされるが、自身では対大山で経験を積んだため振り飛車の相手が苦にならなくなったという。 上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり盤外戦を行わなかった。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった。

大内延介さんの残した言葉【穴熊党総裁】1941年10月2日~2017年6月23日

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「私は全てを失ったように全身に冷汗が流れ、震えていた。それ以後のことは記憶もない。」 「窓外に目をやると、中庭を挟んで対面に明かりの消えてない部屋がある。その部屋が中原名人の部屋であった。名人も眠れない夜を過ごしているに違いなかった。」 「私が升田先生と戦ったときの印象では、一手一手の駒の音に全精神が込められ魂が入っていた。そしその気迫がすさまじかった。」 将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。 振飛車穴熊を駆使して「怒濤流」と呼ばれた。邪道視されていた穴熊をプロの戦法に昇華させ、「穴熊党総裁」との呼び名がある。

升田幸三さんの残した言葉【将棋棋士】1918年3月21日~1991年4月5日

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「僕には不利だ、不可能だといわれるものに挑戦する性癖がある。全部が全部成功するわけではないけれど、それが新型になり、新手を生み、つまり将棋の進歩に繋がる。他の人は安全に先を考えるから先輩の模倣を選ぶ。」 将棋棋士。実力制第四代名人。 名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。木見金治郎九段門下。棋士番号18。