谷口稜曄さんの残した最後の言葉【長崎原爆の被爆者】1929年1月26日~2017年8月30日
「核兵器を持っていない国が、持っている国を包囲し、一日も早く核兵器をなくす努力をしてもらいたい」 (最後のメッセージ) 長崎原爆を体験した被爆者のひとり。1929年に福岡県で生まれる。 1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市東北郷(現:長崎市住吉町)で被爆。原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う。そのまま徒歩で200mほど先の三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難し、機械油で体を拭いてもらうなど簡単な手当てを受け、近くの山へ避難する。2晩過ごした後、道ノ尾駅から救援列車に乗せられ諫早へ赴くも、諌早国民学校の救護所では満足な治療が受けられず、2日後に長与の遠縁の親戚の家に運ばれ静養。9月10日頃、治療のため、勤め先の本博多郵便局近くの新興善国民学校に開設されていた救護病院に運ばれる。 11月、大村の海軍病院(現在、独立行政法人国立病院機構長崎医療センター)へ移送され、3年7か月後やっと退院する。 1949年3月20日に退院する。しかし、その後もたびたび皮膚の移植手術等の治療を受ける。戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに、核兵器廃絶のための活動を続けた。