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木原光知子さんの残した言葉【スイミングアドバイザー】1948年4月5日~2007年10月18日

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「努力が苦しいと思うのは、本人に向いてないんですから、やめればいいんです。嫌なことをしていても伸びません。」 元水泳選手で、タレント・実業家・スイミングアドバイザー、「ミミスイミングクラブ」創立者。競技の現役時代、タレント時代前期、実業家として名前は本名の「木原美知子」となっている。 中学時代から田中聡子のあとの日本水泳界を背負う最大のホープと騒がれる。100m自由形が主であったが、400m自由形や背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった。進学した山陽女子高には水泳部がなく、また岡山には冬の間泳げる温水プールはなく、和歌山県白浜や広島県呉市の海上自衛隊の室内プールに通う。 高校在学時に1964年東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった。競技を引退後は東レの水着モデルを務めるなどタレントに転向。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。また各種スポーツ団体や岡山県関連の理事・委員に加え、2005年より日本水泳連盟初の女性理事を務めるなど多方面で活躍していた。

古橋廣之進さんの残した言葉【フジヤマのトビウオ】1928年9月16日~2009年8月2日

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「あきらめず、へこたれず、魚になるまで、水かきがつくまで泳ぐことだ。」 日本の水泳選手であり、スポーツ指導者。日本大学名誉教授。 第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った。 現役引退後は大同毛織(現 ダイドーリミテッド)に入社。その後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。 2009年8月2日に世界水泳選手権が開かれていたイタリア・ローマにて客死。