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筒美京平さんの残した言葉【昭和の歌謡会を代表する作曲家】1940年5月28日~2020年10月7日

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「自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張感を持っていないとダメなんです。」 「僕らみたいな職業作家は、自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。」  「音楽も人生も、エンディングが大事です。」 「日本人って同調圧力がすごく強くてね。間違った同調の結果が今の状態じゃないですか。皆が選択肢というものが1つしかないと思っちゃっている。多様性が失われている。今の音楽業界がまさしくそうですね。」 「お金には換算できない余白みたいなものが文化になるんです。」 「バブルの時とは反対、マイナス方向の拝金主義ですね。バブルの時は『稼ぎたい』。今は『損しちゃいけない』『守りたい』という“逆バブル”。」 「平成になって本当に下っている。上りのない下り坂って感じです。今が青春の人が可哀想だなって思いますよ。」 「ちょっとしたことが少しずつ積み重なると時代の空気って変わるんですね。」 「文化を育てるのは経済的な余裕も必要なんですよ。」 「昭和には、平成にはない活気、夢があったし、色もあった。色鉛筆で例えると、26色とか52色とかね。青にもいろんな青がありました。いま青っていうと、ひとつしかないでしょ。」 日本の作曲家、編曲家。東京府東京市牛込区出身。青山学院大学経済学部卒業。 本名は渡辺 栄吉。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。筒美音楽事務所代表。2003年、紫綬褒章受章。既婚。

エドガー・アラン・ポーさんの残した言葉【世界初の推理小説家】1809年1月19日~1849年10月7日

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「ネコのようにミステリアスに書けたらと思う。」 「とかれることを望まない。秘密だってあるさ。」 「All that we see or seem is but a dream within a dream.」 (我々が見、あるいは見ていると思う全てのものが、夢の又夢であるに過ぎない。) 「愛しき骸のかたわらに夜ごと この身を横たえる我が命、我が花嫁の眠る海辺の霊園に美しき人の墓穴に。」 「昼間夢見る人は、夜だけしか夢見ない人には見えない多くのことを知っている。」 「強情は人間の心に宿る本源的な衝動の一つである。」 「昼に夢を見る者は、夜にしか夢を見ない者が見逃す、多くのことに気づいている。」 「卑怯に見えるか、卑怯であるのが必要な時に、それができないのは、本当に勇気のあるものではない。」 「一瞬の憎しみによって数年分の愛情を忘れるものなのだ」 アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家。 マサチューセッツ州ボストンに生まれる。旅役者であった両親を早くに失い、名づけ親の商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。帰国後17歳でヴァージニア大学に進む。

エドガー・アラン・ポーさんの残した最後の言葉【世界初の推理小説家】1809年1月19日~1849年10月7日

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「Lord help my poor soul.」 (主よ、あわれなわが魂を救いたまえ。) (最後の言葉) アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家。 マサチューセッツ州ボストンに生まれる。旅役者であった両親を早くに失い、名づけ親の商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。帰国後17歳でヴァージニア大学に進む。

石坂洋次郎さんの残した最後の言葉【小説家】1900年1月25日~1986年10月7日

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「これでよし」 (最後の言葉) 日本の小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。戸籍のうえでは7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。 葛西文学への反撥から健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体から圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。 戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となり、多くの作品が映画・ドラマ化された。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語った。 還暦を超えてなお人気作を量産していたが、1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入る。1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示す。翌1977年には戦時中に執筆しながら連載途中で中絶していたフィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせた。

大沢啓二さんの残した言葉【大沢親分】1932年3月14日~2010年10月7日

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「人間にはわらじをつくる人、みこしを担ぐ人、みこしに乗る人がいる。 誰が一番偉いんじゃなくてよ、それぞれ与えられた役割をまっとうすることが大事なんだ。」 「男なんて、人生の浮き沈みの中からしか、自分を見つけることができねぇんだから。気持ちだけは、いつも前を向いて負けねぇようにしないとな。」 神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。 「大澤」と表記されることもある。本名は大沢 昭、旧名は大沢 昌芳。愛称は「親分」「大沢親分」「大沢の親分」。

タケジロウ・ヒガさんの残した言葉【日系二世兵士】1923年7月22日~2017年10月7日

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「もともとは、物を壊す、人を殺す。それが目的。戦争は、私たち人々の欲がある限り、あるかもしれませんがね。戦争ほどばかばかしい人間の技はないと思います。」 「いじてぃめんそーれ」 (出てきてください!) アメリカ陸軍情報部の言語学兵。ハワイ移民2世で、アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ出身。 両親は沖縄県からハワイへ移民した日本人夫婦。生まれはハワイだが、2歳から少年期までを両親の出身地である沖縄本島の旧中城村(後の北中城村)島袋で過ごす。日中戦争開戦後に義勇兵の募集が開始されると、これに強く反発。1936年にハワイへ戻り、オアフ島ホノルルの姉夫婦のもとに身を寄せた。 しかし真珠湾攻撃後、アメリカ軍でもハワイの日系2世兵募集が開始され、日系人への風当たりが強かったこともあり、苦悩の末に兵に志願。MISの語学兵として日本軍の資料の翻訳、捕虜の尋問にあたった。太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)では、沖縄育ちの上に日本語にも強いことから、情報部隊の一員として同行を命じられ、沖縄の情報をアメリカ軍に提供する任務を負った。こうしてヒガは生まれ育った国を、それも沖縄を敵に回さざるを得なくなった。 沖縄上陸後は島内の壕を回り、壕に避難している県民たちに沖縄方言で投降を飛びかけ、県民たちの命を救った。尋問を命じられた捕虜たちの中には、小学校時代の恩師や同級生たちの姿もあった。同年のアメリカ合衆国による沖縄統治まで沖縄に滞在したが、その間、沖縄方言をはじめとする言葉のみを自分の武器と信じ、県民たちに対して決して銃を放つことはなく、投降を呼びかけ続けた。 ヒガたちのこうした活躍は決してすべての沖縄県民を救ったわけではなく、彼らの言葉を信じずに命を落とした県民も多く、戦火の犠牲となった県民は10万人以上にも昇ると見られている。とはいえ、MISの日系兵の存在がなければ犠牲者の数はそれ以上と見られていることも確かである。しかしながらMISの存在は情報工作などの性格上から極秘扱いされ、1970年代まで明るみに出ることはなかった。

故人が残した名言集【10月7日】

筒美京平さんの残した言葉【昭和の歌謡会を代表する作曲家】1940年5月28日~2020年10月7日 「自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張感を持っていないとダメなんです。」 「僕らみたいな職業作家は、自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。」 「音楽も人生も、エンディングが大事です。」 「日本人って同調圧力がすごく強くてね。間違った同調の結果が今の状態じゃないですか。皆が選択肢というものが1つしかないと思っちゃっている。多様性が失われている。今の音楽業界がまさしくそうですね。」 「お金には換算できない余白みたいなものが文化になるんです。」 「バブルの時とは反対、マイナス方向の拝金主義ですね。バブルの時は『稼ぎたい』。今は『損しちゃいけない』『守りたい』という“逆バブル”。」 「平成になって本当に下っている。上りのない下り坂って感じです。今が青春の人が可哀想だなって思いますよ。」 「ちょっとしたことが少しずつ積み重なると時代の空気って変わるんですね。」 「文化を育てるのは経済的な余裕も必要なんですよ。」 「昭和には、平成にはない活気、夢があったし、色もあった。色鉛筆で例えると、26色とか52色とかね。青にもいろんな青がありました。いま青っていうと、ひとつしかないでしょ。」 日本の作曲家、編曲家。東京府東京市牛込区出身。青山学院大学経済学部卒業。 本名は渡辺 栄吉。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。筒美音楽事務所代表。2003年、紫綬褒章受章。既婚。 タケジロウ・ヒガさんの残した言葉【日系二世兵士】1923年7月22日~2017年10月7日 「もともとは、物を壊す、人を殺す。それが目的。戦争は、私たち人々の欲がある限り、あるかもしれませんがね。戦争ほどばかばかしい人間の技はないと思います。」 「いじてぃめんそーれ」 (出てきてください!) アメリカ陸軍情報部の言語学兵。ハワイ移民2世で、アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ出身。両親は沖縄県からハワイへ移民した日本人夫婦。生まれはハワイだが、2歳から少年期までを両親の出身地である沖縄本島の旧中城村(後の北中城村)島袋で過ごす。 日中戦争開戦後に義勇兵の募集が開始されると、これに強く反発。1936年にハワイへ戻り、オアフ島ホノルルの姉夫婦のもとに身を寄せた。