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いわさきちひろ さんの残した言葉【画家】1918年12月15日~1974年8月8日

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「大人というものは、どんなに苦労が多くても、自分の方から、人を愛していける人間に、なることなんだと思います。」 「人間はあさはかなもので、身にふりかかってこなければ、なかなかその悲しみはわからない。若い、苦しみに満ちた人たちよ。若いうちに苦しいことがたくさんあったということは同じような苦しみに堪えている人々にどんなにか胸せまる愛情がもてることだろう。」 「本当に強いやさしい心の人間になる条件はその人が、経験した苦しみの数が多いほどふえていく。」 「世界中の子供みんなに平和としあわせを。」 「戦場にいかなくても戦火のなかで子供たちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。」 「平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」 子供の水彩画に代表される日本の画家・絵本作家である。福井県武生市生まれ。左利き。 常に「子どもの幸せと平和」をテーマとした。 初期作品には、岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロ名義で発表されたものが存在する。夫は日本共産党元国会議員松本善明。孫は絵本作家の松本春野。

鳳啓助さんの残した言葉【漫才師】1923年3月16日~1994年8月8日

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「わー大きな口に吸い込まれるぅ」 日本の俳優・漫才師。大阪府大阪市出身。 父は剣戟俳優の梅林良雄で、3歳の時に祖父の劇団で子役デビュー、1956年に自ら座付き作家を務めた「瀬川信子一座」の一員だった京唄子と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」や「ポテチン」「あら、言いそこ間違いよ」「君の事は忘れようにも思いだせない」などのギャグで人気を博した。その後、唄子と結婚するが、1964年に離婚後もコンビとしての活動を続け、「唄啓劇団」を旗揚げした。 その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『唄子・啓助のおもろい夫婦』の司会や、『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。特に『おもろい夫婦』では唄子との丁々発止の言葉のやり取りが番組の人気を博し名物となった。

グレン・キャンベルさんの残した言葉【カントリー歌手】1936年4月22日~2017年8月8日

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「私はアーカンソーのなにもないところに住んでた小さな子供だった。ただ早いうちから、ラバのケツを眺めるだけの人生を送りたくはないと思っていた。音楽のおかげで、この素晴らしい人生に導かれたんだ」 「私が子供の頃は家に電気が通ってなかったんだ。親父はラジオをストーブの上に置いて、もう何日分か電池が持つように焼いたりしていた。それくらい本当に貧乏だった。私はカントリー・ウェスタンやシナトラやら、なんでも聴いた。ギターを手にすることは自然な成り行きだった。それしかなかった。牧場でやれることなんて他に大してなかったんだ」 「セッション・ミュージシャン時代は確かに金を稼ぐことができたけれども、もっとやらなければならない自身の歌に集中する時間は妨げられた。問題は当時まだ自分自身に自信が持てていなかったことだ。私がバックを務めたスター達は私の名前すら知らなかった。私は列の後ろでただギターをつま弾いている奴でしかなかったんだ」 「自分が物心ついた頃から覚えていることと言ったら、食べて、息をして、歌って、ギターを弾くことだけだ。1週間だけガソリン・スタンドで働いたけど、タイヤの交換で危うく手を失うところだった。私はギターが弾きたいから辞めたんだ。だって指が潰れたんじゃギターが弾けなくなっちまう」 「キムに出会ってから、世界が変わったよ。彼女は正直な人なんだ。私は不誠実だったことがあるから、言えた立場ではないけど。(彼女と出会う前に)座って神様に奥さんを送ってくれないかと祈ったんだ。どうもうまくいかなくてね。キムと結婚してから本当に幸せだよ」 「私はとても幸運だった。人生を通してずっと、いつもいるべき場所にいるべきタイミングでいたと思う。運命が私を正しい扉に導いてくれていたかのようにね。」 アメリカ合衆国のカントリー・ミュージック歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優。1960年代および1970年代に多くのヒット曲を生み出し、CBSのバラエティ番組『The Glen Campbell Goodtime Hour』の司会で知られる。

故人が残した名言集【8月8日】

グレン・キャンベルさんの残した言葉【カントリー歌手】1936年4月22日~2017年8月8日 「私はアーカンソーのなにもないところに住んでた小さな子供だった。ただ早いうちから、ラバのケツを眺めるだけの人生を送りたくはないと思っていた。音楽のおかげで、この素晴らしい人生に導かれたんだ」 「私が子供の頃は家に電気が通ってなかったんだ。親父はラジオをストーブの上に置いて、もう何日分か電池が持つように焼いたりしていた。それくらい本当に貧乏だった。私はカントリー・ウェスタンやシナトラやら、なんでも聴いた。ギターを手にすることは自然な成り行きだった。それしかなかった。牧場でやれることなんて他に大してなかったんだ」 「セッション・ミュージシャン時代は確かに金を稼ぐことができたけれども、もっとやらなければならない自身の歌に集中する時間は妨げられた。問題は当時まだ自分自身に自信が持てていなかったことだ。私がバックを務めたスター達は私の名前すら知らなかった。私は列の後ろでただギターをつま弾いている奴でしかなかったんだ」 「自分が物心ついた頃から覚えていることと言ったら、食べて、息をして、歌って、ギターを弾くことだけだ。1週間だけガソリン・スタンドで働いたけど、タイヤの交換で危うく手を失うところだった。私はギターが弾きたいから辞めたんだ。だって指が潰れたんじゃギターが弾けなくなっちまう」 「キムに出会ってから、世界が変わったよ。彼女は正直な人なんだ。私は不誠実だったことがあるから、言えた立場ではないけど。(彼女と出会う前に)座って神様に奥さんを送ってくれないかと祈ったんだ。どうもうまくいかなくてね。キムと結婚してから本当に幸せだよ」 「私はとても幸運だった。人生を通してずっと、いつもいるべき場所にいるべきタイミングでいたと思う。運命が私を正しい扉に導いてくれていたかのようにね。」 アメリカ合衆国のカントリー・ミュージック歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優。 1960年代および1970年代に多くのヒット曲を生み出し、CBSのバラエティ番組『The Glen Campbell Goodtime Hour』の司会で知られる。 鳳啓助さんの残した言葉【漫才師】1923年3月16日~1994年8月8日 「わー大きな口に吸い込まれるぅ」 日本の俳優・漫才師。大阪府大阪市出