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服部半蔵さんの残した言葉【家康を支えた諜報参謀】1542年~1596年11月4日

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「我が身、既に鉄なり 我が心、既に空なり 天魔覆滅」 戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵で、服部半蔵の名でよく知られている。 松平氏の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、家康より預けられた伊賀衆と甲賀衆を指揮していた。 父の保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。 一般的に「伊賀忍者の頭領」のイメージが強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。 徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。しかし、いくつかの合戦において伊賀者や甲賀者と行動を共にするほか指揮官として忍びを放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。

前田慶次さんの残した言葉【戦国一のかぶき者】1543年(諸説あり)~1605年12月18日

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「生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う」 「寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る」 「七年の病なければ三年の藻草も用いず雲無心にしてくぎを出るもまたをかし、詩歌に心無ければ月下も苦にならず寝たき時は昼も寝起きたき時は夜も起きる。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ八幡地獄におつべき罪もなし。生きるだけ生きたらば死ぬでもあらうかと思ふ」 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。小説や漫画の影響で、現在では前田慶次/慶次郎の通称で知られるが、宗兵衛、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、道号でも、穀蔵院飄戸斎や穀蔵院忽之斎、または龍砕軒不便斎と時期によって名乗りが異なる。 滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。

片倉小十郎さんの残した言葉【伊達家忠臣の鑑】1557年~1615年12月4日

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「自分こそが政宗なり」 (敵に囲まれた政宗の危機を救うため) 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称小十郎は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。兜は、神符八日月前立筋兜。 政宗が人取橋合戦の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに後見致す」などと騙り敵兵を一手に引き付け、政宗の窮地を救ったという。 伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。また大変な笛の名手であったとも言われる。 平時には内政、戦時下においては謀略で、優れた献策により伊達政宗を支えた。伊達政宗も小十郎の献策は素直に受け入れることが多かった。 妻が重長を懐妊した際には当時主君・政宗に未だ子がいなかったのを憚り、実子を殺害しようとしたが、政宗の説得により留まったと言われている。 景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。 晩年は大層に肥満していた。『伊達家世臣家譜』によれば慶長7年(1602年)政宗より、「年を取って太ったその体では重い鎧は身に合わないであろう」と軽い鎧を賜ったという。症状からの推定では、糖尿病を患っていたと考えられている。 死後、景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したといわれている。

本多忠勝さんの残した辞世の句【戦国一の武芸者】1548年3月17日~1610年12月3日

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「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」 (辞世の句) 「死にともな(死にたくない) 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」 (辞世の句) 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。 忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えた。 一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す) 織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。

本多忠勝さんの残した言葉【戦国一の武芸者】1548年3月17日~1610年12月3日

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「思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。 思慮のある人の功名は、士卒を下知して大きな功名をなしえる。だが、思慮のない人は鎗一本の功名であって大きな事は出来ない」 「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし。」 「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君を枕と並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という。」 「槍は自分の力に合うものが一番」 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。 忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えた。 一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す) 織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。

小早川秀秋さんの残した辞世の句【金吾中納言】1577年~1602年12月1日

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「名のために 捨つる命は惜しからじ つひに止まらぬ浮き世と思へば」 (辞世の句) 安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮と改名した。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。

藤堂高虎さんの残した言葉【城造りの名手】1556年2月16日~1630年11月9日

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「人の善悪は友による」 「上下の間に生ずる疑心暗鬼が平和な時代の何よりの敵と存じます。疑いの念が次第に大きくなると、家全体が乱れます。天下泰平の時の一番の大敵は、まず上が下を疑うことかと存じます。」 「大事の時は、皆が大変だと言い、一門や部下が大勢集まって議論する。だから、大事はさらなる大事に至らず、きちんと解決できる。ところが小事となると、皆が大したことではないと軽視し、タカをくくってしまう。知恵を出し合わないために、小事が思わぬ大事を引き起こす。油断の成せる業だ。」 「小事が大事に至らないためには、小事も大事だと思って、大事の時と同じような議論と慎重な決断を下すべきだ。そうすれば決して後悔することはなかろう。」 「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ。」 「寝屋を出るより、その日を死番と心得るべし。かように覚悟をきわまるゆえに、ものに動ずることなし。」 「数年、昼夜奉公しても気のつかない主人であれば、代々仕えた君主であっても暇を取るべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない。」 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる

石田三成さんの残した辞世の句【治部少輔】1560年~1600年11月6日

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「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 (辞世の句) 安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。本姓:藤原氏 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

石田三成さんの残した言葉【治部少輔】1560年~1600年11月6日

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「われ、大軍を率い、天下わけ目の軍しけることは、天地やぶれざる間は、かくれあらじ、ちつとも心にはづる事はし。」 「大義とおもふものは、首をはねらるる期までも命を惜しむは、なにとぞ本意を達せんと思ふゆえなり。」 「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし。」 「成るべく、季節のものをば進上ありたし。」 「常に奉公人は、主君より取物を遣ひ合せて、残すべからず。残すは盗なり。つかひ過ごして借銭するは愚人なり。」 安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。本姓:藤原氏 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

大谷吉継さんの残した辞世の句【大谷刑部】1558年~1600年10月21日

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「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」 訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。 (辞世の句) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部の通称でも知られる。

大谷吉継さんの残した言葉【大谷刑部】1558年~1600年10月21日

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「人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん」 「大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す」 「金のみで人は動くにあらず」 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部の通称でも知られる。

島左近さんの残した言葉【謎多き名将】1600年10月21日

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「ただ城下の繁栄に驕って、下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危うい」 戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近の名で広く知られる。実名は勝猛などの俗称が広まってはいるが、自筆文書においても「清興」の花押を使用しており、正確には清興であると考えられる。

浅井長政さんの残した辞世の句【江北の雄】1545年~1573年9月26日

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「けふもまた尋ね入りなむ山里の花に一夜の宿はなくとも」 (辞世の句) 戦国時代の武将。 北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。 妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。 浅井氏は滅亡した。 官位は贈従二位中納言。

浅井長政さんの残した言葉【江北の雄】1545年~1573年9月26日

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「今度御父親御討死、中々申ばかりも御入候はず候。御心中をしはかり候べき候。」 戦国時代の武将。 北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。 妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。 浅井氏は滅亡した。 官位は贈従二位中納言。

豊臣秀吉さんの残した辞世の句【三英傑・天下人】1537年3月17日~1598年9月18日

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「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪花のことは 夢のまた夢」 (辞世の句) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 天下人、武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。 本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。

豊臣秀吉さんの残した言葉【三英傑・天下人】1537年3月17日~1598年9月18日

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「返す返す秀頼のこと 頼み申し候 五人の衆 頼み申し候 頼み申し候」 「どこへ逃げたって、日本全国は俺の庭だ。気にするな。」 「それは上々、一段の吉日にござる。信長公のために討ち死にするは覚悟のうえ、二度と生きて帰ろうとは思わぬ。さてまた光秀の天命が尽きれば、大利を得て、思いのままに国をもらい、この播磨の城に帰ることはない。」 「人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。」 「ひそかにわが身の目付に頼みおき、時々異見を承わり、わが身の善悪を聞きて、万事に心を付けること、将たる者、第一の要務なり。」 「何事もつくづくと思い出すべきではない。」 「やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭できる。」 「降参した者を殺してはいけません。」 「女狂いに好き候事、秀吉真似これあるまじき事。」 「人と物争うべからず、人に心を許すべからず。」 「およそ主人たるもの、1年使ひ見て、役に立たぬときは暇を遣はし、家来としては、三年勤めて悪ししと知らば、暇をとること、法なり。」 「信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、怒りがいつまでも解けず、ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆から愛されることはない。」 「いくら謙信や信玄が名将でも、俺には敵わない。彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。」 「世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う。」 「猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・大閤、これも又皆がいやがるところでの我慢があったればこそ。」 「いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。」 「側に置いておそろしい奴は、遠くに飛ばす。」 「家康は愚か者だ。が、油断のならない愚か者だ。」 「この黄金の輝きも 茶の一服に勝るものかな。」 「一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる。」 「主人は無理をいうなるものと知れ。」 「主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。」 「敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ。」 「戦は六、七分の勝ちを十分とする。」 「戦わずして勝ちを得

北条早雲さんの残した辞世の句【戦国時代最初の武将】1432年又は1456年~1519年9月8日

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「枯るる木に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」 (辞世の句) 室町時代中後期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。 伊勢 宗瑞とも呼ばれる。 北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。 戦国時代の幕開けとなった武将。 「下剋上」「大器晩成」の典型とされていたが最近の研究で出自や出生について分かってきた為、疑問符を付けられることもある。 韮山城にて病死。

北条早雲さんの残した言葉【戦国時代最初の武将】1432年又は1456年~1519年9月8日

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「朝は常に早く起きるように心がけねばならない。遅く起きるならば、下の者までが気持ちを緩めてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は必ず主君からも見離されてしまうものと思って、深く慎まなくてはならない。」 「古語に、『子の刻(午前0時)に寝て寅の刻(午前4時)には起きよ』と言っているが、そのようなことは、人によって当てはまるのである。つねに寅の刻に起きるのがよろしく、辰巳(八時から十時まで)の刻までも寝ていたのでは、主人への出仕も叶わず、御奉公にも事欠くことになるのみならず、また、自分の用事をもすることができず、全くつまらない次第であって、毎日暮らしているのも無駄なことである。」 「『多人数の者と交わっては、差出がましくして事を起こすようなことがあってはならぬ』という言葉があるが、何事もしなくてよいことは、他人に任せればよい。」 「上下万民すべての人々に対して、言半句たりとも嘘を言うようなことがあってはならない。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。嘘を言っていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れが言った言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにも嘘は言わぬように心掛けなくてはならぬ。」 「御奉公申し上げる用事の間には、乗馬の練習をするがよい。乗り歩く基礎を十分練習して、手綱のさばき具合や、その他の妙技について、稽古を積んで習得すべきである。」 「友を選ぶ場合、良友として求むべきは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとえ習ったからといっても悪事とまでは呼はれぬものである。これは、他になす事のない連中が、空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものといえよう。」 「夕方になったならば、六ツ時(午後六時)には門をぴったりと閉ざしてしまって、人が出入りをする場合だけ開くようにさせるがよい。そのようにさせなくては、やがては必ず何かの悪事がひき起こってくるものである。」 「夕刻には、台所や茶の間その他の火の置いてある場所を自分で見回って、火の用心を家人に対してかたく申し付

加藤清正さんの残した辞世の句【肥後の虎】1562年7月25日~1611年8月2日

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「汝らは等しく予が股肱(ここう/頼りになる家来)、腹心なり。使うところはその器に従うのみである」 (辞世の句) 「上一人の心、下万民に通ず」 (辞世の句) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助。 熊本では清正公さんと呼ばれて親しまれている。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。 秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。

加藤清正さんの残した言葉【肥後の虎】1562年7月25日~1611年8月2日

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「どこに陣を取っても、清正に知らせずに、乱暴狼籍に身分の低い者をこき使う者があったならば、その主人の責任として成敗を加える。この旨、下々人足以下の者にまでよくいい聞かせよ。これからは、いかに勇敢に戦っても、掟に従わなかったら、何事も不用になる。」 「奉公の道に油断してはならない。朝は辰刻(7時~9時)に起きて兵法を使い、飯を食い、弓を射、鉄砲を撃ち、馬に乗るがよい。武士の嗜みのよい者には、とくに昇進させるだろう。」 「普段の友達づきあいは一人くらいにしておくといいだろう。ただし、武芸を催す場合には、多人数集まってやるがよい。」 「いままで人に詰め腹を切らせたことはないが、今度不心得者があったならば、八幡大菩薩、神かけて詰め腹も切らせようぞ。」 「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」 (上の者が油断していれば、部下も全員油断するという趣旨) 「鉄砲隊を率いる鉄砲頭は、日頃申しつけたように、鉄砲を役に立て、その次は、槍、太刀、刀の衆へ引き継ぎ、その後の展開に注意し、後詰めをすることが肝要である。一人一人の突出した働きは、武者の中にははいらぬ。」 「上の者も下の者も勤番や普請の際に、身体をよく動かして手足を汚すことをしかねる者があったとしたら、臆病者と認め、成敗も加えようぞ。」 「乱舞は一切停止する。太刀や刀をとれば人を斬ろうという心が起こるのが、武士として当り前のことであるから、武芸のほかにやたらに刀を抜いて乱舞するような者に対しては、切腹を申しつける。」 「学問に精を入れよ。兵法の書物を読み、忠孝の心がけを持つことが肝要だ。詩や連歌や和歌などをみだりに作ったり読んだりしてはならない。心の中に華奢で風流な手弱いことばかりをかけていたならば、いかにも女のようになよなよしくなってしまうものだ。武士の家に生まれたからには、太刀や刀をとって死ぬことこそ本当の道である。」 「軍の礼法として侍が心得ねばならないのは、いらないところに儀礼を好んではならないことである。」 「衣類は木綿・紬(つむぎ)などを用いよ。衣類に金銀を費やすのは、けしからんことだ。平素から身分相応に武具を嗜み、人を扶持し、軍用のときには、金銀を惜しみなく使うと良いだろう。」 「普段から武士道の心がけを練っていなかったならば、いざという場合に潔く死ぬことはできにくいものだ。よくよく心を武に刻む