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奈良原一高さんの残した言葉【伝説的写真家】1931年11月3日~2020年1月19日

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「困るどころか歓迎しますよ。なぜなら、こういうときこそプロとアマの差がはっきりするからです。」 (日本ではもう誰もがカメラをあやつる時代になりましたが、こういう状態になるとプロのカメラマンは困りませんか。との問いかけに) 日本の写真家。 前衛美術に傾倒し、1955年には、池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。1956年、初個展「人間の土地」を開く。1958年、個展「王国」で日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。1959年、東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。『ヨーロッパ・静止した時間』(1967)で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1986年「ヴェネツィアの夜」に対して、日本写真協会年度賞を受賞。1996年に紫綬褒章を受章。2002年、パリ写真美術館で、2004年、東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2006年、旭日小綬章受章。

今井洋介さんの残した言葉【テラスハウス】1984年10月29日~2015年11月23日

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「人と人の間にはガラスがあって、それを自分でぶち破るか、破ってもらうか、一緒に破るか。そうしないと人と人は繋がれない。そのガラスをぶち破らないと、写真でも音楽でも、人には伝えられない。」 日本の写真家、ミュージシャン、タレント。 神奈川県鎌倉市出身。湘南高校卒業。多摩美術大学中退後、イギリスのボーンマス美術大学とハワイ州立大学へ留学し、その頃から写真を撮り始めた。ノルウェー人と結婚し一女をもうけるもビザ等の問題から離婚。帰国後は写真活動を続ける中調理師免許を取得する。その後、BILLABONGでモデル兼ショップ店員として働いていたときにフジテレビジョンのリアリティ番組「テラスハウス」に出演し、注目を集め、以降、個展やライブにて活躍。

ルネ・ブリさんの残した言葉【マグナム・フォトグラファー】1933年4月9日~2014年10月20日

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「被写体としての人はいなくても、ヒューマン・ストーリーなんだ。」 「ただの風景写真にならないように、どこまで深く感情を入り込ませてヒューマンドラマを伝えられるかが大切だ。」 スイス人の写真家である。チューリッヒに生まれた。写真を学んだ後ライカを手に世界を駆け回った。1959年よりマグナム・フォトのメンバー。ル・コルビュジエ、ジャン・ティンゲリー、パブロ・ピカソ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラの写真で有名である。 ブリは20世紀の多くの事件を写真に収めた。戦争、紛争、芸術家、指導者、世相を反映した映像。人々はその中に人間と生者の意義を見ることができる。

福島菊次郎さんの残した言葉【写真家】1921年3月15日~2015年9月24日

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「オモテに出ないものを引っ張り出して、叩きつけてやりたい」 「根源的な意味で言えば、日本全体が嘘っぱち」 日本の写真家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。 山口県下松市に、網元の四男として生まれる。1944年春に出征し、広島西部第10部隊に配属され、弾薬や物資を馬で運搬する任務に就くが、訓練中に馬に蹴られて骨折し、除隊となる(同部隊は福島の入院中に船で沖縄へ向かったが、魚雷に撃沈された)。1945年春に再召集。部隊が本土決戦の際に爆雷を背負って戦車に飛び込むよう命を受け、7月31日から日南海岸の砂浜に掘った穴の中に身を潜め、8月15日の終戦を迎えた。同月末に復員し、時計店を開いて時計修理や写真現像の仕事を始める。同年暮れに結婚。 戦後、民生委員などの社会事業を通じて作家活動をはじめ、広島市に投下された原爆の被災者の10年におよぶ困窮生活を活写した作品『ピカドン ある原爆被災者の記録』が、日本写真評論家協会賞特別賞を受賞(1960年)。しかし「ピカドン」の撮影で、被写体となった被爆者の凄惨な生活状況を間近に見続けたことで幻聴や幻覚に襲われ、精神衰弱の診断を受けて精神科に3か月入院し、時計店の経営も傾いたことなどもあって離婚。1961年、3人の子どもを連れ上京しプロ写真家となる。土門拳、木村伊兵衛が審査員を務める「カメラ(CAMERA)」の月例コンテストに応募していたこともある。 原爆、政治・軍事問題、学生運動、公害・福祉問題などをライフワークとし、「ピカドン」など17回の個展を開き12冊の写真集がある。中近東、アラブ、ソビエト連邦などに長期にわたる取材もこなした。作品は、『中央公論』、『文藝春秋』、『朝日ジャーナル』などの総合雑誌グラビアで約3300点が発表されている。また、「写真で見る戦争責任展」などの写真展を全国510会場で開催した。 1969年、1年以上かけての「迫る危機」の撮影では、防衛庁(当時)を信用させ、兵器工場内の取材を許されたが、撮影禁止箇所を隠し撮りして無断で公表した。その後、暴漢に刃物で切り付けられ、鼻骨を折って10針縫う重傷を負い、その1か月後には自宅を放火された。ただし、家に保管されていたネガは娘が持ち出して無事であった。 1982年、自給自足の生活を目指し瀬戸内海の無人島に入植。1987年、検診で胃癌が見つかり、山口県柳井市...

ロバート・フランクさんの残した言葉【写真家】1924年11月9日~2019年9月9日

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「『The Americans』が成功を収めたあと、私は同じことを繰り返したくなかった。そして周囲は何かを期待し続けている。今でもそうだ、私が古い作品を編集した写真集を刊行したときでさえ。だからこの探求はもっと内面的なもので、私のセンチメンタルな部分と関係している。私はセンチメンタルにはなりたくないと常に言っている。写真はセンチメンタルであるべきではない。しかし、それでも私は自分のセンチメンタル性に気づいている。」 「私は映画製作で成功したことがない、まったく。きちんとできた試しがないのだ。そしてそれは素晴らしいこともある。うまくいかないというのは良いこともあるのだ。おかげでやり続けられるから。」 「私の写真は前もって計画したり構図を決めて撮ったものではない。写真を見る人が共感してくれるのを期待することもない。しかし、もしも私の写真が見る人の心になにかイメージを残すとしたら、そのとき何かが成し遂げられたと私は感じるのである。」 「私はしばしば、被写体を自分の見解に沿うように故意にねじ曲げていると非難されてきた。ともあれ、写真家にとって生命とは無関心ではいられないテーマである。意見は一種の批判から成ることがある。しかし批判は愛からも生まれ得るのだ。他人には見えない何かが見えるということが重要だ。おそらくそれは希望の、もしくは悲哀の表情。また、写真を撮るのは常に自分に対する瞬間的な反応なのである。」 アメリカ合衆国の写真家。現代を代表する写真家の一人である。 「ハーパーズ・バザー」のファッション・カメラマンをへて、1951年に雑誌「ライフ」の若手写真家コンテストで入賞。外国人として初のグッゲンハイム奨学金を受け、1955年から56年にかけてアメリカ撮影旅行にでかける。1958年、代表作である「アメリカ人」("Les Americains")をフランスで発表、翌年にはジャック・ケルアックが序文を書いたアメリカ版(The Americans)が出版され、後に続く写真家に多大な影響を与えた。

中平卓馬さんの残した言葉【カメラになった男】1938年7月6日~2015年9月1日

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「まず何よりも私、写真家であるということに固執し続けております。その一点を、私、放棄することは全く不可能です。まさにそれ故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家である一点である、と思考しぬいております」 日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。 1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。

大竹省二さんの残した言葉【写真家】1920年5月15日~2015年7月2日

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「おせば写る写真。プロにのこされたのは哲学。」 日本の写真家。静岡県出身。1992年(平成4年)日本写真協会功労賞を受賞。主な写真集に「遙かなる詩」「ファミリーヌード」などがある。 人物を撮影した写真が中心である。特に女優など女性のポートレート写真が多い。 1992年日本写真協会功労賞を受賞。2003年、二科会写真部理事長・創立会員となる。

田中光常さんの残した言葉【伝説の動物写真家】1924年5月11日~2016年5月6日

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「大したことはないと撮った写真の中に傑作はけしてなく、努力し『凄い!』と手ごたえ十分に撮った十枚にやっと『ヤッタ!』の一枚がある。」 日本の動物写真家。

秋山庄太郎さんの残した言葉【写真家】1920年6月8日~2003年1月16日

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「平凡できれいだということは、あまり目立つことじゃないけど、飽きられないことでもあるんです。自分も飽きませんしね。」 日本の写真家。