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加藤治子さんの残した言葉【女優】1922年11月24日~2015年11月2日

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「何か人生が分かったみたいに、人間ができたみたいにしてるのって性に合わないんですよ。自分の好きなことに、みっともないくらい、むきになっちゃう。そんな女でいたいのよ。」 日本の女優。血液型はAB型。 松竹少女歌劇学校を経て、1937年、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名で松竹少女歌劇団に入る。同期には、後の男役トップスター・小月冴子や曙ゆり、並木路子、矢口陽子(後の黒澤明夫人)、月城彰子(後の十代目・岩井半四郎夫人)などがいた。1939年には東宝に迎えられ、『花つみ日記』で映画デビューする。榎本健一の相手役など数本の映画に出演した。 1941年に慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志らが結成した新演劇研究会(解散するが、戦後に麦の会として再出発)に入団。同会は1949年に文学座に合流し、以降は主演級で活躍した。 1963年には芥川、高橋昌也、高木均、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加した(1975年に退団)。 1964年、『七人の孫』で母親を演じ、森繁久彌らと共演。以後、ホームドラマでの母親役を当たり役にして人気を集める(森繁、大坂志郎、若山富三郎、藤岡琢也との夫婦役は名コンビと呼ばれた)。 いしだあゆみや樹木希林、平田満との共演も多かった。 向田邦子や久世光彦とは公私ともに親しく、向田作品においては常連出演者かつキーマン役を務め、女の業を滲ませた役も演じた。 1994年から2009年までは『浅見光彦シリーズ』にて浅見雪江(光彦の母)役でレギュラー出演した。 晩年までコンスタントに作品を選ばずに出演(映画における遺作は『おとうと』。テレビドラマでの遺作は『魔術はささやく』)。