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古賀政男さんの残した遺書【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日

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遺書 <昭和53年7月23日>  今宵も又、ナツメロ大会を放送している。 私の歌は、いつまで繰り返されるのだろう。 私の歌の好きな人はみんな悲しい人達ばかりだ。 早くこんな歌は唄われなくなる日が来ると好い。 みんなハッピーになって欲しい。 日本人が、明るく楽しく愉快に暮らしてゆける時代が来ると好い。 悲しみなんかもう沢山だ。 戦争の傷もピカドン(原爆)の慟哭も、早く、早く消えろ。 そして古賀メロディも早く去れ。 私も早く消えたい。  この世から、日本から、 誰かがきっと、明るいハッピーをもたらすだろう。 みんな幸せになって欲しい。 私の願いはこれだけだ。 しかし、私はもう秋の蝉だ。 声もなく、只沈黙を守って、ジッと樹にしがみついているだけだ。 霜が降りて、私は土の中で、奥深くもぐってゆくばかりだ。  古賀政男 拝 (遺書) 昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学商学部卒業。本名、古賀正夫。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。

古賀政男さんの残した言葉【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日

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「小学校時代の私は英才ではなかった。ただ私は『驚く』という才能があった。」 「歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね。」 昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学商学部卒業。本名、古賀正夫。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。

カルロ・ベルゴンツィさんの残した言葉【テノール歌手】1924年7月13日~2014年7月25日

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「私は歌っているのではありません。ただ呼吸をしているだけです」 イタリアのテノール歌手。その美声を売り物として、特にヴェルディ作品の演奏を多く手がけたテノール歌手である。 ポレージネ・パルメンセ生まれ。アリゴ・ボーイト音楽院を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。 ポレージネ・パルメンセ生まれ。アリゴ・ボーイト音楽院(パルマ)を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。しかし声の変化に気づき、改めて研鑚を積んで51年、パリでアンドレア・シェニエ(ジョルダーノ作曲、タイトル・ロール)を歌いテノールとして再デビューに成功。評判を高めて53年ミラノ・スカラ座、56年にはアメリカ・メトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューを果たし、スターの地位を確立した。

早川和男さんの残した言葉【建築学者】1931年5月1日~2018年7月25日

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「確かに大地震である。だが、それを『大災害』にしたのは、このように脆弱な都市にしてきた行政にあるのではないか。」 (阪神淡路震災直後の寄稿) 日本の建築学者、神戸大学名誉教授。専門は住居学。 奈良市出身。京都大学工学部建築学科卒業。西山夘三に師事。1973年「都市開発における空間価値の研究」で京都大学工学博士。日本住宅公団技師、建設省建築研究所建築経済研究室長などを経て、1978年神戸大学教授。1982年日本住宅会議事務局長。1993年『居住福祉の論理』で今和次郎賞受賞。1995年神戸大学を定年、名誉教授、長崎総合科学大学教授、日本福祉大学客員教授。「住まいは人権」をかかげて住宅・土地問題に取り組む。日本居住福祉学会会長、国際居住福祉研究所長を歴任。2001年より「日中韓居住問題国際会議」を三国の研究者らと開催。「住居は人権」という理念のもと、「居住福祉」の概念を国際的に展開する「居住学」の第一人者。

故人が残した名言集【7月25日】

早川和男さんの残した言葉【建築学者】1931年5月1日~2018年7月25日 「確かに大地震である。だが、それを『大災害』にしたのは、このように脆弱な都市にしてきた行政にあるのではないか。」 (阪神淡路震災直後の寄稿) 日本の建築学者、神戸大学名誉教授。専門は住居学。 奈良市出身。京都大学工学部建築学科卒業。西山夘三に師事。 1973年「都市開発における空間価値の研究」で京都大学工学博士。 カルロ・ベルゴンツィさんの残した言葉【テノール歌手】1924年7月13日~2014年7月25日 「私は歌っているのではありません。ただ呼吸をしているだけです」 イタリアのテノール歌手。その美声を売り物として、特にヴェルディ作品の演奏を多く手がけたテノール歌手である。 ポレージネ・パルメンセ生まれ。アリゴ・ボーイト音楽院を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。 ポレージネ・パルメンセ生まれ。アリゴ・ボーイト音楽院(パルマ)を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。 しかし声の変化に気づき、改めて研鑚を積んで51年、パリでアンドレア・シェニエ(ジョルダーノ作曲、タイトル・ロール)を歌いテノールとして再デビューに成功。 評判を高めて53年ミラノ・スカラ座、56年にはアメリカ・メトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューを果たし、スターの地位を確立した。 古賀政男さんの残した言葉【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日 「小学校時代の私は英才ではなかった。ただ私は『驚く』という才能があった。」 「歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね。」 遺書 <昭和53年7月23日> 今宵も又、ナツメロ大会を放送している。 私の歌は、いつまで繰り返されるのだろう。 私の歌の好きな人はみんな悲しい人達ばかりだ。 早くこんな歌は唄われなくなる日が来ると好い。 みんなハッピーになって欲しい。 日本人が、明るく楽しく愉快に暮らしてゆける時代が来ると好い。 悲しみなんかもう沢山だ。 戦争の傷もピカドン(原爆)の慟哭も、早く、早く消えろ。 そして古賀メロディも早く去れ。 私も早く消えたい。 この世から、日本から、 誰かがきっと、明るいハッピーをもたらすだろう。 みんな幸