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遠藤実さんの残した言葉【作曲家】1932年7月6日~2008年12月6日

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「歌は心」 戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。 作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する。 1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。 1949年7月、17歳の時に上京。様々な職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。 星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。 その後日本マーキュリーの専属作曲家となる。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」がヒット。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」を発表し大ヒット。その後日本コロムビア専属になる。 1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 のタイトルで東映から製作配給された。 1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任。その後、1972年に徳間康快に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパンに改組した。 1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界

海老一染之助さんの残した言葉【太神楽師】1934年10月1日~2017年12月6日

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「親父が終戦を迎えると『これからは、西洋から歌手や音楽の大家がやってくる。とても敵わないから、日本独特の芸をやらなくては駄目だ』と言って、私たちにお神楽を習わせたんです。」 「この三味線はお袋が使っていたもので、これしか残っていないんです。三味線としての価値はごく普通の三味線ですが、弾くたびにお袋の供養をしているような気持ちになってきます。」 「日本国中、世界の皆さまのお幸せを心から祈念して、まいります。『おめでとうございまーす!』」 (染太郎逝去の際、染之助は葬儀会場に居並ぶ報道陣の前で号泣しながら絶叫。) 弟。東京都新宿区出身。メインの曲芸担当。 テレビ東京の村井正信キャスターは息子。晩年は糖尿病を患い、それをテーマにしたコラムを書いていた。 日本舞踊では花柳錦蔵を名乗る。 染之助は滅多に怒らない人物で「ヨイショの染さん」と呼ばれていたが、後輩芸人が兄:染太郎に対し無礼な態度をとったときは、本気で激怒した。しかし、言った本人は冗談のつもりであったため、怒られた時はおろおろしていた。

故人が残した名言集【12月6日】

海老一染之助さんの残した言葉【太神楽師】1934年10月1日~2017年12月6日 「親父が終戦を迎えると『これからは、西洋から歌手や音楽の大家がやってくる。とても敵わないから、日本独特の芸をやらなくては駄目だ』と言って、私たちにお神楽を習わせたんです。」 「この三味線はお袋が使っていたもので、これしか残っていないんです。三味線としての価値はごく普通の三味線ですが、弾くたびにお袋の供養をしているような気持ちになってきます。」 「日本国中、世界の皆さまのお幸せを心から祈念して、まいります。『おめでとうございまーす!』」 (染太郎逝去の際、染之助は葬儀会場に居並ぶ報道陣の前で号泣しながら絶叫。) 東京都新宿区出身。メインの曲芸担当。 テレビ東京の村井正信キャスターは息子。晩年は糖尿病を患い、それをテーマにしたコラムを書いていた。 日本舞踊では花柳錦蔵を名乗る。 染之助は滅多に怒らない人物で「ヨイショの染さん」と呼ばれていたが、後輩芸人が兄:染太郎に対し無礼な態度をとったときは、本気で激怒した。 しかし、言った本人は冗談のつもりであったため、怒られた時はおろおろしていた。 遠藤実さんの残した言葉【作曲家】1932年7月6日~2008年12月6日 「歌は心」 戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。 作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。 また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する。