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ウィンストン・チャーチルさんの残した最後の言葉【ヒトラーから世界を救った男】1874年11月30日〜1965年1月24日

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「私は随分沢山のことをやって来たが、結局何も達成できなかった」 (娘への最後の言葉) 「何もかもウンザリしちゃったよ」 (最後の言葉) イギリスの政治家、軍人、作家。 第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年の勝利達成まで戦争を主導した。西方電撃戦、ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためスターリンのソ連と協力し、またルーズベルト大統領のアメリカとも同盟関係となった。 しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍敗退による相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。 1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、同年7月の総選挙でアトリー政権が成立し保守党は惨敗した。第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で「鉄のカーテン」演説を行うなど独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後にアトリー労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを、帝国主義の立場から批判し植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失い消滅することとなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。 1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退いた。

ウィンストン・チャーチルさんの残した言葉【ヒトラーから世界を救った男】1874年11月30日~1965年1月24日

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「Kites rise highest against the wind – not with it.」 (凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない。) 「Never, never, never, never give up.」 (決して屈するな。決して、決して、決して!) 「To build may have to be the slow and laborious task of years. To destroy can be the thoughtless act of a single day.」 (築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。) 「A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty.」 (悲観主義者はあらゆる機会の中に問題を見出す。楽観主義者はあらゆる問題の中に機会を見出す。) 「I am an optimist. It does not seem too much use being anything else.」 (私は楽観主義者だ。それ以外のものであることは、あまり役に立たないようだ。) 「The greatest lesson in life is to know that even fools are right sometimes.」 (人生最大の教訓は、愚かな者たちでさえ時には正しいと知ることだ。) 「It is a mistake to try to look too far ahead. The chain of destiny can only be grasped one link at a time.」 (先を見すぎてはいけない。運命の糸は一度に一本しかつかめないのだ。) 「Without courage, all other virtues lose their meaning.」 (勇気がなければ、他のすべての資質は意味をなさない。) 「The price of greatnes...