佐伯敏子さんの残した言葉【原爆供養塔の守り人】1919年12月24日~2017年10月3日

「人間は意識して勤勉になるのではありません。思いの強さが、人を勤勉にするのです。」


日本の反核運動家。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島平和記念公園内で被爆者たちの遺骨を供養する原爆供養塔の清掃活動のボランティアを長年にわたって続けていたことから「原爆供養塔の守り人」「ヒロシマの大母さん」とも呼ばれる。

1945年8月6日、佐伯は長男に逢うために姉の家を訪ねていた。同日、広島市に原子爆弾が投下。姉の家は爆心地から10キロメートル離れていたために佐伯は直撃を避けられたが、母と夫の家はいずれも爆心地近くであったため、被害に遭った家族や親族たちを捜して、まだ火の海となっている市内の爆心地を駆け回った。この際、まだ生存している重傷者たちが無傷の佐伯に助けを求めたが、家族を捜す佐伯は彼らを見捨てざるを得なく、大きな後悔を残すこととなった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者たちの遺体を踏みつけるしかなく、このときの足の感触はその後も10年以上にわたって佐伯の心を苦しめることとなった。この40年後にも当時のことを「足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした」と振り返っている。

日本国外にいた夫は被爆を免れたものの、直撃を受けた兄2人や妹はその後に佐伯の目の前で次々に変わり果てた姿で死去し、母は首だけの姿となって翌月に発見され、加えて夫の両親、義姉(長兄の妻)、甥と姪(長兄の次男と長女)、伯父2人、伯母、従兄弟、計13人を70日間で失った。この間、佐伯の家族・親族同士の間ですら、「病気がうつる」といって原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家へ預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られることがあり、佐伯は戦争や原爆が人間の体のみならず心をも傷つけることを見せつけられた。

佐伯自身も被爆直後に入市したことで、残存放射能で被曝(入市被曝)しており、一時的に体調不良に見舞われたものの、後に回復。終戦後の同1945年末に復員した夫、1947年に誕生した次男たちと共に広島での生活を続けた。しかし、やがて入市被曝による原爆症が本格化した。歯がすべて抜け落ち、28歳にして総入れ歯となった。白血球減少にも見舞われ、体重は28キログラムにまで落ちた。当時はまだ被爆者健康手帳による医療扶助もなく、収入も少ないために通院治療も困難であった。1953年には三男を身ごもり、医師の猛反対を押し切って出産した。しかし医師の危惧通り、出産で体力を消耗した佐伯は、体内の臓器のほとんどががんに侵された。卵巣摘出や胃切除の手術も受けた。後に三男は当時の母の病状を、「母の顔がお化けのようになった」と語っている。

1955年には、自分の命が長くないと見て、子供たち宛ての遺書を書き遺した。原爆投下日の8月6日より執筆を始め、完成には3年の月日を要した。

広島平和記念公園内で被爆による無縁仏を葬るための原爆供養塔が1955年に完成して間もない頃、同公園内の原爆死没者慰霊碑へは多くの拝礼者が訪れる一方、この原爆供養塔にはほとんど拝礼者がおらず、雑草が伸び放題など荒れ放題であった。このことから佐伯は供養塔へ日参と、塔周辺の落ち葉拾い、草むしり、わずかに訪れた人々が生けた花の手入れなどの清掃活動を始めた。

母の残りの遺体や、まだ発見されていない親族の遺体がこの供養塔に眠っているかもしれないと考えたためでもあり、前述のように、かつての原爆投下直後、助けを求める多くの負傷者に何もできなかったことへの後悔、死没者たちへの謝罪、死没者たちの言葉があるならそれを聞き取りたいとの思い、「犠牲者の声なき声を伝えることが、あの日を知るものの務め」と考えたことなども動機であった。

供養塔での清掃活動時の服装は、常に黒い喪服を着用した。毎月6日は被爆による死没者たちの月命日として、僧を呼んで供養塔の前で供養することを慣わしとし、8月5日の夜には供養塔のそばでろうそくを灯して通夜を勤めた。すでに息子たち宛ての遺書も完成しており、広島市内に訪れる場所もない佐伯は、長くないであろう自分の余生を、供養塔に眠る死没者たちの謝罪に費やそうと決心していた。

前述のようにすでに病気に侵された体でありながら、佐伯は自宅を発ち、バスで約1時間かけての日参を、ほぼ毎日続けた。誰から依頼されたわけでもない奉仕であったが、ほとんど毎日の日々を供養塔の清掃に費やしている佐伯を、市に雇われて給料を得ていると思っている者も多かったという。

1969年、中国放送で原爆供養塔の遺骨の遺族捜しのラジオ番組が放送されており、その中で読み上げられた死没者の名前に夫の両親の名前があったことから、遺骨が供養塔に眠っていたことが判明した。これにより、佐伯らは無事、義父母の遺骨を引き取ることができた。この義父母の遺骨の引き取りを機に、供養塔のためにずっと家族を蔑ろにしてきた佐伯は、供養塔での奉仕をやめて家庭に戻ることを考えた。しかし三男から「自分の家族が見つかったからやめるのはおかしい」「この大切なことを誰から誉められなくても続けてきたのだから、やめてはいけない」と強く勧められ、その後も供養塔での奉仕を続けた。

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