大内順子さんの残した言葉【ファッション評論家】1934年5月4日~2014年10月30日
「先日友人と、『もし今死ぬとしたら、最後にどんな言葉を残したいか』という話題になりました。私は『いろいろありがとうございました』という言葉しか思いつかなかった。いつも、今が満足なんです」
ファッション評論家、ファッションジャーナリスト。豊橋市立豊城中学校、愛知県立豊橋東高等学校、青山学院大学文学部英米文学科卒業。161cm。本名、宮内順子。トレードマークはサングラスとボブヘア。
太平洋戦争(昭和16年12月8日)直前に母と姉と共に帰国。岡山や福岡など疎開先を転々とし、岡山で終戦と父親の帰国を迎えた。戦後、大地主だった大内家の地福岡県八女市に移り住む。小学校だけで6回も転校を重ねたが、中学の途中から高校卒業まで愛知県豊橋市に住む。父・義郎は愛知大学創設に関わる為に豊橋市に転居。家族も豊橋に住む。父は愛知大学教授になる。大学在学中に婦人画報などの雑誌やファッションショーのモデルとして活躍する。画家宮内裕が学生向けファッション誌のモデルを探していたことから知り合い、後に学生結婚する。大学の同級生に森村誠一。 また彼女のひときわ目立つ美貌と可憐で上品な顔立ちは、画家の中原淳一の描いた美少女のイメージそのままであり、中原お気に入りのモデルであった。彼の発行する雑誌それいゆのグラビアに何度も登場し、モデル引退後はそれいゆのファッションコラムの執筆の仕事の依頼を受けた。
卒業後はモデルから評論家に転身して雑誌、新聞、ラジオ、テレビなど幅広い分野で活動し、日本におけるファッションジャーナリストの草分け的存在となる。しかし、20代前半に交通事故で眼窩や頬骨に大怪我を負い右目の視力を失ってからは、人前に出る際は必ず顔の半分ほどもある大きなサングラスを着用するようになった。
世界各地でファッションコンクール審査委員を歴任し、パリ市、ミラノ市、NYファッショングループ、FEC等から多数の受賞歴がある。2001年に仏政府から芸術文化勲章オフィシエ章を受けた。
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