越路吹雪さんの残した最後の言葉【シャンソンの女王】1924年2月18日~1980年11月7日

「いっぱい恋をしたし、おいしいものを食べたし、歌も歌ったし、もういいわ」

(最後の言葉)


日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団男役トップスター。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」。 所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業。

越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても現役で活躍していた岩谷時子の存在が大きかった。岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社、共に上京し東宝に所属。東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも務めた(岩谷は1963年に東宝を退社)。岩谷は自身が作詞家として成功を収めた後も、自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。

越路と岩谷が初めて接触したのは、新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと岩谷に相談を持ちかけたときだった。このとき2人でつくったサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは岩谷が「代筆」することもよくあったという。

その後、岩谷は気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする岩谷を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという。

宝塚時代から、靴や洋服など欲しいものがあればどんどん買ってしまい、よく給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を重々承知していた岩谷は、1978年、越路がパリにアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託した、という話も残っている。

また岩谷はマネージャー業の傍ら、越路の「日本語でしか歌いたくない」という求めに応じて越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、越路の代表曲である『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』などは岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。

越路吹雪がこの世を去る数か月前、胃の手術のため入院した際「もう一度彼女を舞台に立たせたい」と強く願っていた岩谷は、闘病中の越路から睡眠薬と煙草を取り上げることに懸命だった。それにも拘わらず、夫の内藤は妻である越路が病床でタバコを吸っていても、ずっと大目に見ていたという。「いまの越路には厳しい愛が必要だ」と考えていた岩谷にとって、これは許しがたいことであった。3度目の入院を前に岩谷は、越路のもとを訪れた際に「内藤さん、あなた(越路)に甘過ぎるんじゃないの。あなたもあなたよ!『睡眠薬もタバコも辞めなけりゃ、胃の痛みは治らない』って、お医者様も仰ったでしょう?もし今後もあなたが私の言う事を守れないのなら、あなたの仕事は一切手を引かせて貰うわよ!!」と叱責する一方、一対一で説得。その日以来、越路は睡眠薬もタバコも一切止めたという。

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