荒川博さんの残した言葉【王貞治さんを育てた名コーチ】1930年8月6日~2016年12月4日
「ダメになった時が成長する時だ」
「(王は)打つことにかんしては一生懸命でした」
「王貞治に会ったのは、世界で一番素晴らしい出会いだった」
東京都台東区浅草出身の元プロ野球選手、コーチ・監督、解説者。
川上哲治監督の下、1962年から1970年に巨人一軍打撃コーチを務め、7度のリーグ優勝・日本一に貢献。早大の後輩・広岡が犬猿の仲であった川上に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみであった。コーチ時代は「荒川道場」と呼ばれる厳しい指導で選手のプライベートも徹底的に管理し、特に王に「一本足打法」を指導したことで知られる。
一本足打法は後に駒田徳広らにも伝授しているが、王ほどの効果はなかった。王以外では土井正三・黒江透修・高田繁らを育て、巨人の第3次黄金時代を支えた。
1967年の中日戦で、円城寺満審判に対し判定を不服とし、柴田勲とともに同審判を小突き回し判定を変えさせたが、退場処分を受けた。同試合終了後に円城寺は審判引退を表明したが、その光景は、後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす事になる暴れん坊の金田正一をして「長年野球一筋で来た円城寺さんが殴られるのを見て、哀しくて見てられなかった」とコメントする程だった。1968年、阪神のジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、荒川はバッキーに殴られて4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となり精彩を欠いたことで成績が低迷し、1969年オフに現役を引退している。なお、1985年頃に荒川は来日したバッキーと再会し、恩讐を越えて仲良く握手していた。その後は養子の荒川尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため1970年に勇退。巨人退団後はフジテレビ・文化放送解説者を経て、1973年は2月に日本鋼管を指導した後、同年のシーズン途中からヤクルトアトムズの一軍打撃コーチに就任。1974年からは三原脩の後を受けて、監督に昇格。コーチ陣に広岡達朗・小森光生・沼澤康一郎と早大の同期・後輩を配し、早大カルテットと称された。1年目は前半戦こそ出遅れたが、後半戦の8月に5試合連続完投勝利を含む6連勝をマークして浮上に成功し、13年ぶりのAクラスとなる3位。
2年目の1975年は日本ハムから大杉勝男を獲得して臨むも4位、3年目の1976年は開幕から低迷し、5連敗を喫した同年5月12日に成績不振の責任をとって辞任。辞任後はフジテレビ・文化放送、日本テレビで解説者を務めた。
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