仰木彬さんの残した言葉【平成の名将】1935年4月29日~2005年12月15日

「山に登るルートはたくさんあるのだから、自分の成功体験を押し付けてはいけない。」


福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。 昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。

現役時代から、かなりの遊び人だった。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督からも「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。後にスカウトされた清原和博も、「朝飯のお茶代わりにビールを飲むような人」と自身の著書で語っていた。

本人はグラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習そのものはかなり厳しく、とりわけ走りこみの量は12球団一とされるほどだった。ただし、これは根性論・精神論ではなく、あくまで試合で結果を出すことが目的であった。実際、1989年にコンディショニングコーチに就任した立花龍司がまだ日本では普及していなかった量よりも質を重視した最新のトレーニング理論に対して、他のコーチが反発する中で理解を示し、その年リーグ優勝を達成したことで、立花を高く評価した。

オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。この時の打者は松井秀喜であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。

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