小野田寛郎さんの残した言葉【大日本帝国の陸軍軍人】1922年3月19日~2014年1月16日
「世の中には出来そうにないことでも、やらなければならないことがあるし、できることでもやってはいけないことがある。」
「この判断基準こそが、その人の価値を決める。」
「生まれた時は自我ばかり、生きるためには自制と自律がなければ。」
「豊かさは自分の心で感じるもの。不便さは何とでもなる。最後は自分の五体で何とかなる。」
「やってしまったことは『しかたがない』。これからどうするかだ。くよくよ負け犬になってしまう。負け犬は遠くから吠えるだけで向かってこない。」
「計画どおりにいかないことは沢山あるが、思い通りにはいくものだ。不満などどうってことはない。自分の満足度を少し変えればよいのだから。」
「過去は捨てることはできない。現在は止めることができない。しかし、未来は決めることができる。」
「自分では『どうすることもできない』と思っていることでも、本当は『どうにかしよう』としていないだけではないか。」
「コンパスは方向は教えてくれるが、川や谷の避け方は教えてくれない。」
「コンパスばかり見ていると川や谷に落ちてしまう。自分で考えて判断しなければ。」
「若い意気盛んな時に、全身を打ち込んでやれたことは幸せだったと思う。」
「疲れている時、怪我をしている時は、弱気になってしまう。満腹な時、体調の良い時は、油断をする。」
「汚名は恐れない。いつか晴れるから。結果を恐れる。どうしようもないから。」
「反省はさせられるものではなく、自分でみずからするもの。」
「約束の時間に遅れれば、その時間の分だけ待たせた人の人生を無駄にさせる。約束を守れない人は信用されず、自分の人生を無駄にすることになる。」
「馬鹿な人は嫌いだ。馬鹿な人とは頭のわるい人のことではない。自分勝手で思いやりや常識のない人のことだ。人は一人では生きられないのだから。」
「戦いは相手次第。生き様は自分次第。」
「礼儀は挨拶ではない。家庭や社会で筋道をつけること。」
「自制や自律は筋肉と同じ。鍛練すれば強くなり放っておくと、生まれた時の自我に戻ってしまう。」
「叱りすぎてもだめ、褒めすぎてもだめ。叱りすぎると叱った人が慢心し、褒めすぎると誉められた人が増長する。それでも、子供たちは叱るより誉めてやりたい。」
「親の顔が見たいと思う時はまだ救われる。親の顔を見たくなくなったらおしまい。親を見れば子が分かる。子を見れば親が分かる。親子は鏡。」
「日本に帰還した時、やたらと『権利と義務』という言葉が目についた。私が少年の頃は『まず義務を果たすこと』を教えられた。権利は義務を果たせば自ずと与えられるもの。」
「何事も熱いうちは大丈夫。冷たくなったらおしまい。人は熱しやすく冷めやすい。」
「サバイバルとは、今まで生きてきた方法では生きれ残れない時に、なおかつ生き残る方法を考えて実行すること。」
「努力しても方法を間違えては、失敗する。」
「道具は正しく使ってこそ道具。間違うと凶器になる。」
「紐を結ぶ時、手際良く確実に締まりやすくすることは当然のこと。しかし、解きやすいことも大切。何でもやれば良いと言うものではない。何をやるにも経過も結果も大切。結果の先のことはもっと大切。」
「生きることは夢や希望や目的を持つこと。それらは教えられたり強制されたりしても、湧くものではない。自分で創り出すしかない。甘えてはいけません。」
「夢や希望を語るのは思っているだけ。それを目的に変えなければ達成できない。『したいと思います』から『やります』に変えるべきだ。」
「強い人ほど優しい。強い人は余力があり、弱い人を助けたくなる。誰でも『他人のために働きたい』とは思っている。それには強くならなければ。」
「よく『何でそんなに頑張ったのか』と聞かれるが、頑張ったのではなく、頑張らざるを得なかったのだ。皆がやっていることを、自分だけくじけたら笑われるから。」
日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。 情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還を果たした。
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