池田晶子さんの残した言葉【わたくし、つまりNobody】1960年8月21日~2007年2月23日
「誰にとっても正しいことなのだから、お互いの正しさを主張しあって喧嘩になるはずもないということも、わかるよね。だから、本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになるんだ。」
「『自分』というのは、名前でなければ、身分でもない。体でなければ、心でもない。ないないづくしで、どこにもない。それが『自分』というものだけど、だからといって、自分など『ない』というのでもない。なぜって、自分など『ない』と言っているその自分が、まさにそこに『ある』からだ。ないけれどもある。あるけれどもない、それが『自分』というものの正体、その存在の仕方の不思議さなんだ。何を『自分』と思うかで、その人の自分は決まっているというのも、この意味だ。」
「目に見えないもの、思いや感じや考えのことをひとまとめにして『心』と呼んでいるけれど、同じ目に見えないものの中でも、動いて変わる部分と、動きも変わりもしない部分とがある。前者が感情、後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考える物だ。」
「君は、自分が呼吸して、自分が食べるから、自分が生きているんだと思っている。でも、呼吸も消化も、全然君が意志してやっていることなんかじゃないんだから、その意味では、君が意志して君を生きているというわけじゃないんだ。じゃあ誰がこの体を生きているんだろう。」
「自分に都合が悪いことはすべて、『社会が悪い』『社会のせいだ』というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、ほかでもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。」
「『社会』なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。」
「結局のところ、『社会』というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。」
「『自分がそう思う』というだけなら、それが正しいか間違っているかは、まだわからない。自分ではそれを正しいと思っていたのだけど、ほかの人はそれを正しいとは思っていなかったとか、以前は正しいと思っていたのだけど、今は正しいと思わないとか、よく気をつけてみると、そんなことばかりじゃないだろうか。だから人は、自分が思っていることが正しいことなのかどうか、常に『考える』ということをするわけだ。」
「『本当にそう思う』ということと、『本当にそうである』ということは、違うことだと覚えておこう。だって、間違ったことだって、自分がそう思っているのだから、『本当にそう思う』と思えるわけだ。でも、間違ったことを本当だと思ったって、間違ったことが本当になるわけじゃない。」
「『日本』という国が、国旗や国歌や国土以外のものとして存在しているのを、君は見たことがあるかい。それらは、日本の国旗、日本の国家、日本の国土であって、その日本なんて、どこにもない。人々の観念の内にしかない。なのに人は、『日本』という国家が、外に物のように存在していると思って、それが観念であるということを忘れて、その観念のために命を賭けて戦争したりするわけだ。」
「ここで気をつけてほしいのは、法律はそれを『してはいけない』としているのであって、「悪い」としているわけではないということだ。なぜなら、法律がいけないとすることが悪いことなのだったら、どうしてそんな法律があるのだろう。つまり、多くの人はそれを悪いことだと思っていないからだって、これ、わかるかな。」
「人は、『考える』、『自分が思う』とはどういうことかと『考える』ことによって、正しい定規を手に入れることができるんだ。自分ひとりだけの正しい定規ではなくて、誰にとっても正しい定規、たったひとつの正しい定規だ。」
「『自分』は何者でもない。そして、自分が自分であるということには、どのような理由も根拠もない。耐えるしかない。それは、『存在』が存在したことに、どのような理由も根拠もないのと正確に同じことなのだ。『神』を認めるのでなければ。」
「『生まれる』ということは、言語と論理を獲得することだと私は理解しています。それが『考える』ということの始まり、したがって『人間として』生まれるということなのです。」
「ああ。それなら君は、死んでいるとはそういうことかわかっているわけだ。だって死んでいるのでないということが生きているということだとわかっているわけだから。だったら、死ぬことが怖いことであるはずもないじゃないか。それがどういうことかわかってるんだから。」
「ああ、困ったものだ。本当に困ったものだ。じつは世界中の大人達もみんな困っているんだ。どうすればいいかわからなくてね、そんな困った大人の社会で、これからイヤでも生きて行かなければならない君は、さあ、どうやって生きていけばいいのだろう。」
「考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。どうしてそうなると君は思う。謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考えつづけることになるんだ。」
「『あんたなんか死んじゃえ』という言葉は、他人を傷つけているようで、じつは自分を傷つけている。刃物になった言葉が、自分の中で、自分を傷つけていないはずがないじゃないか。」
「自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくことなんだ。」
「存在が存在するということは、これ自体が驚くべき奇跡なんだ。存在するということには意味も理由もない、だからこそ、それは奇跡なんだ。自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているなんて、なんて不思議でとんでもないことだろう。」
「あの『ブログ』というのが、現代ふう自己顕示の典型だね。お互いいっせいに『私は』『俺は』と誰だか知れない誰かに向かって主張している。誰でもいいからとにかく他人に認めてほしい。他人に認められなければ、自分を自分と認められないんだ。」
「しかし私は死んだ経験がないから『生命』という経験を何との類比においてそれとして意識内にさだめることができるのかがわからないのである。躍動感、自由感、生き生きと持続する感覚、といったところで、『死んでいる感覚』を経験していない限り、この定義はトートロジーだ。」
「そうかね。それで僕は、君がしたいことをする自由がないというから、したいことをするためにそれをやめる自由が君にだってあるじゃないかといったんだが。」
「しかし、自分を認めるために、他人に認めてもらう必要はない、空しい自分が空しいままに空しい他人とつながってなんで空しくないことがあるだろうか、人は他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。」
「しかし、誰かや何かのせいにしても、やっぱり人は死ぬときには死ぬのであります。このことが正しくわかっていると、人生いろいろ、かなりラクになりますよ。」
「いろいろあるのだよ、言論にはね。大変なのだよ。何が一番大変と言って、一つの言葉を、大勢で一緒に使わなければならん―中略―それらが皆で一斉に、たとえば『正義』という言葉で何かを言ったとしてご覧。正義の人の正義も、正義でない人の正義も、全部おんなじ『正義』というとこ場で言われるのだ。」
「いずれにせよ長い(短い)人類の歴史には、いろんなことがあり得ます。無くなることもあり得ます。死んで無くなった自分の側から見てみると、そのいろんなことが良く見えて、えも言われない感じがするものです。」
「しかし、我々の日常とは、よく考えると、明日死ぬ今日の生、その連続以外の何ものでもない。なのにどうして人は、言葉を求めずにお金を求めるのか。世の中が息苦しくなっているのだって、言葉が汚れ、汚れた水の中で生きていられなくなっているからに他ならないのですよ。」
「この世に『罪』は存在しない。ただ、無知のみがある。」
「この校則は破るしかないと決めたなら、それだけの覚悟と責任でもって、破ればいい。なぜなら、それが、君が本当にしたいことだからだ。君が君の人生で本当にしたいことを、君の自由で決めたのだから、規則を破ることの報いとしての、『罰』を受けることにだって、決して悔いなどないはずだ。」
「社会が決める法律には正しさは必ずしもないとすれば、正しさはどこにあるか、わかるね。そう、自分にあるんだ。善悪を正しく判断する基準は、自分にある、自分にしかないんだ。なるほど、人には自分のしたいことをする自由がある、悪いことをする自由もある。でも、悪いことをする自由は、じつは自由ではないんだ。だからこそ、善悪を自分で判断すること、それができることこそが、本当の自由なんだ。自分で自由に決めるということの、本当の意味なんだ。」
「孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方をしらないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友達といることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことついて、心ゆくまで考えることができるからだ。」
「努力を放棄された理想は、単なる空想か、漠然とした憧れにすぎない。単なる空想なら現実になるわけがない。理想を実現しようと努力することこそが現実なんだ。」
「間違った思い込みは、自分を名前だと思うところから、次第に広がってゆくことになる。世界に存在する物には名前があるから、犬や自動車が存在するのと同じ仕方で、自分という物も存在していると思ってしまうんだ。でも、これは違う。だって、自分はその名前のことじゃないんだから。」
「美しいという感じと、美しいという意味は、どっちが先にあるものだろう。美しいという言葉は、美しいという感じにつけられた名前なんだろうか。名前と事柄とは、どっちが先なんだろうか。」
「生死の不思議とは、実は『ある』と『ない』の不思議なんだ。人は、『死』という言い方で、『無』ということを言いたいんだ。でも、これは本当におかしなことなんだ。『無』とは、『ない』とうことだね。無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、『ある』のだろうか。『ない』が『ある』のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。」
「『わからない』と感じることを、どこまでも考えてゆくようにして下さい。『わからない』ということは、答えではなくて、問いなのです。君が毎日やっているその自分とは、本当はなんなのか、知りたくないはずはないでしょう。」
「『誰にも迷惑かけないのに何が悪いの』というのも、売春する子の屁理屈だ。他人に迷惑をかけることが悪いことなのではないということは、『規則』の章で考えた。その通り、その子が売春したところで、誰も迷惑は受けないし、悪くなることも何もない。だけど、この世の中でたった一人だけ、大変な迷惑を受け、大変悪いことになる人がいる。売春しているまさにその子だ。心も体も大事にしないで、それが悪くならないはずがないじゃないか。自分が悪くなることをすることが、どうしてしたいことをしていることになるだろう。」
「善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とにかく深い。まさにこの思い込みのために、人類において、道徳や法律は時代や国によって相対的になっているのであって、本当は話がまったくあべこべなのだけど、ここ数千年、人類はそのことに気がついていない。」
「感動するということは、共感するということに他ならないからだ。だから、ある天才の仕事に感動できるとしたなら、君は、天才だ。天才が何をしようとしていたのかを理解できるなら、君は天才だ。天才を理解できるのは天才だけだという動かせない対応とは、両者が共に自分を超えた大きなもの、つまり『天』を見ているということで理解し合うということなんだ。」
「何であれ、『自由』というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。いいかい、『私は自由だ』と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。つまり、『私にはしたいことをする自由があるのに、したいことをする自由がないのだ』と。いったいこれは何を言っていることになるのだろう。」
「もしも君が、善悪は外にはなくて内にあるという事実にはっきりと気がついたなら、よいことは、『しなければならないこと』ではなくて、よいことでなければしたくない、よいことだけが『したいこと』、そういうふうに変わるはずだ。この時になって初めて、『善悪』と『快苦』は一致する。本当によいことって、すごく気持ちのいいものなんだよ。」
「自尊心を持つ、ということと、プライドがあるということは、間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思っているけど、それなら他人に侮辱されても腹は立たないはずだよね。なぜなら、自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんか気にならないはずだから。もしそうでないなら、自分の価値より他人の評価を価値としていることになる。するとそれは自尊心ではなくて、単なる虚栄心だということだ。」
「試しに、大人に、『なぜ生活しなければならないの』と訊いてごらん。きっと、『生きなければならないからだ』と答えるだろう。『じゃあ、なぜ生きなければならないの』と訊いてごらん。きっと、『そりゃ生きなければならないのは決まってるじゃないか』くらいしか応えられないはずだから。でも、変だね、生きることを権利と決めている法律はあるけど、生きることを義務と決めている法律はないよね。じゃあ、決まってるって、誰がそれを決めているのだろう。決めているのはその人だ。生きなければならないという法律はなく、誰もその人に生きることを強制してはいないのだから、『生きなければならない』と、生きることを義務か強制のように思っているのはその人でしかないんだ。(中略)その人は、本当は、『生きなければならない』ではなくて、『生きたい』と言うべきなんじゃないだろうか。本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに『生きなければならない』と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。」
「もしも、個性とは、個性的になろうとしてそうなるようなものであるなら、そこには必ず他人との比較があるはずだ。人と同じようにはするまい、人と同じようにはなるまいという、他人を気にする気持ちがあるはずだ。だったら、どうしてそんな人が個性的であるはずがあるだろう。本来のその人がそうである仕方でそうであるのではないからだ。」
「人は、自分を愛しているから嫉妬するんじゃなくて、愛していないから嫉妬するんだ。面白いもんだね。」
「我々がお互いの話す言葉や読む言葉を理解することができるのは、そこに『意味』が存在するからです。言葉を理解するとは『意味』を理解することに他ならない。」
「心も脳も、精神も物質もないわけさ。いや、あると言えばあるんだがね。ないと言えば、やはりないのだ。無体な話さ。よくもまあ皆、狂いもせずに、なんやかや生きてるよ。」
「戦争も平和も大虐殺も、巨きな潮の満ち干なのだよ。」
「正義についる君は、つまり正義を知らないのだね。知らないからそれを生きられないのだね―中略―そこまで言うなら正義とは何であるか自ら肩って見せたまえ。居直るヤツに、彼は答えた。『正とは不正を為さざることである』」
「普通に人というのは、何事かは何事であってくれないと困るのだ。何事かが何事であるかわからないというのによく耐えられないのだ、その弱さのために。」
「存在しない社会に、自分の存在を押しつけて、応えてくるないと不平を言っても無理である。なぜなら、相手は存在しないのだからである。」
「善悪を自分で考えない人は、誰かが決めてすでにそうなっている善悪に従って生きるようになる。この社会ではっきりわかる形になっているのが、法律というものだ。善悪をつきつめて考えるのは大変だから、逆に人間は法律を作りだしたともいえる。」
「問題はね、僕らはいったいなにから生き残ろうとしているのかってことさ。生き残ったそこはどこなのかってことさ。」
「大人になって、悪いことをしなければ、生きてゆけないという状況に置かれたとする。君は、悪いことをして、悪い心の人間になっても生きていければいいと思うだろうか。では、その時、何のために生きてゆかなければならないのだろうか。」
「存在しているのはひとりひとりの人間だけ、しかも、このひとりひとりがまた、社会は応えてくれぬと不平を言っているのだから、なおのこと無理というものである。」
「始まりを繰り返すことの痛みは、終わりへと向かうことへの痛みでもあるだろう。花は儚いと人は言う。自分の人生がそうであるようにと。」
「死ぬときにゃいつだって死んでやるよ。死ぬのが怖くて生きてなんかられるかってんだ。」
「衣、食、住、どれも同じ、すべてそう。『あの人の方がいい』。だとしたら、『格差』というのは、ひょっとしたら、外にあるものではなくて、うちにあるもの、その人の心の中にあるものではないか。比較する心そのものではないいか。」
「自分の意見と同じように、他人の意見も尊重しなさいなんて言われるけど、そんなこと無理だってわかるだろ。意見はしょせん意見にすぎない。それぞれが自分の立場や都合や好き嫌いから言っているにすぎないのだから、互いに尊重するのは不可能だ。」
「言語と論理の獲得以前、人は自らの感覚はじめ事象を対象化することができない。『それは何か』を言うことができない。言語と論理を獲得して、初めて人は、『それは何か』を言えるようになる。理屈によって理解できるようになるわけです。」
「黙ってたって、誰だって死ぬまでは必ず生きてるんだ、理屈もってなきゃ人間生きていけないなんて、本気で思いこんでんだったら、なんだってあたしら今まで生きてこられたのさ。」
「赤い花を赤い花と思うな、何かを何かであると思うな。主語と述語を固定したとき無限の可能性が失われる。しかし全ての自覚的な表現者と自覚的な生活者は皆、脂汗の滲むような行き止まりのその認識に耐えているのだ。」
「考える人間が考えるのは、普遍的な真理を知るためだ。誰が何と言おうと、誰がどこでいつ考えようと、絶対に変わらない本当のことを知るために、知りたいという切なる欲求を抑えられないために、人は考えるのだ、考え続けてきたのだ。」
「生きるということは、言葉を生きるということなのである。そして、言葉を生きるということは、それを既に知っているということなのである。なぜなら、見よ。言葉を使用しつつ私達は既に生きている!」
「理屈を言うのは頭が悪いせいだからだよ。理屈を言うのは頭が悪いせいだからって、こんな簡単な理屈も分からないから、理屈屋は頭が悪いんだよ。」
「生まれてから死ぬまで生きている人間には、その死ぬということがどういうことか、決してわからない。死ぬことがわからないのだから、生きていることはどういうことかだって、わからない。なぜなら死があっての生であり、生があっての死だからだ。」
「私はこの自分がいまここに存在するというこのことが、どのように膨大な量であれなんらかの数量に換算し得るとは全く信じていない。宇宙の歴史数百億はそう考えているこの己の頭の中に存在しているのである。」
「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか。生きるためなら、何のために生きているのか。」
「ほんとうの諦観というのはだな、諦めることなんかできやしないのだという考えに諦め続けることでしかないのだよ。」
「なるほど、誰にでも好かれて、誰とでも友達になれたら、それは素晴らしいことだ。でも、もっと素晴らしいのは、誰にでも好かれるより、誰かを好きでいることだ。そして、もっと素晴らしいのは、誰でも好きになることだ、でも、たぶんこれは人間には、おそろしく難しいことだね。」
「もしも人間が生きていることに価値があるとするなら、それはその精神の高さにしかないということを、ずっと若いうちから知っておくべきなんだ。」
「シニカルに構えるのは、少々頭の弱い人間なら誰にでもできる体のいい韜晦法で、韜晦するほどの中身もないのに韜晦しているかのように見せられるからである。」
「もしも君が自分の人生を大事にいきたいと思うのなら、言葉を大事に使うことだ。世界を創った言葉は人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。つまらない言葉ばかり話していれば、君は必ずつまらない人間になるだろう。」
「なぜなら、人生は、過ぎ去って還らないけれど、春は繰り返し巡り来る。一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環性を見るからだ。それは魂が故郷へ帰ることを希うような、たぶんそういう憧れに近いのだ。」
「だって、がんばって不動産なんか手に入れたって。遅かれ早かれ死んでしまうもの。手に入れたってしょうがないでしょう、そうでしょう。だから私は、そんなものを手に入れるよりは、そもそもこの人生とは何なのかを理解したい。」
「だからこそ人は、肉体が生きているということだけでは何の価値もないと、自分から知っておかなければならないと言っているんだ。」
「だって、正義も反正義も、そうと信じ込んでいる愚かさでは同じじゃないか、自分の頭で考えたまえ、自分の言葉で語りたまえ、その上自分を捨てたまえ。」
「どんなふうであっても生きている方が、死ぬよりも『よい』と信じているからでしかないと、君は認めるね。いったいその根拠はなんだい?」
「ちょっとひねくれて、僕はべつに不幸でもいいよ、なんて言っている君、不幸を求めるという仕方で、やっぱり自分は幸福を求めているということに気がつかないか。」
「人がものを考えるために使用している形式、『Aである』とか『AはBである』とか『AがBならばCはDである』などの形式を決めたのはあなたですか?」
「君もちゃんとわかってるじゃないの。嫌だ嫌だと言う人は、ほんとはそれが好きなんだってこと。」
「友達をいじめて、その子が辛い思いをするのを見て喜ぶような心は、悪い心だ。本当の幸福を知らない心だ。自分の心が、自分が悪く不幸になることが、自分にとってどうしてよいことであるだろう!」
「君を好きな人と同じ数だけ、君を嫌いな人がいる。そう思っていれば、間違いないだろう。誰にでも好かれようなんて、君が誰でもないのでなければ、不可能ってものだよ。」
「哲学史とは、考えるという業病に憑かれた病人たちの、人類史規模の病歴だと。君はまだ、あれらのカルテを拝み上げているのか。」
「哲学だか思想だかしらないけれど 、聞いてりゃたんなる愚痴なのさ。愚痴と悪口だけなのさ。あたしは死ぬほど好かないよ、だって、悪いのは自分の頭の方だろうに、世間のせいにするために理屈ひねり出してるんだから、ずるいじゃないか。」
「僕らが誰か人を信頼するのは、その人の考えがその人の生き方を裏切らず、その人の生き方がその人の考えを示している、そういうときだけだ。」
「人に嫌われたくない、好かれたいと思うのは、人に認められたいと思うからだ―中略―つまり自分に自信がないからだ、自分に自信がないから、人に認められることで、初めて自分を認められるように思うんだね。だけど、そんな仕方で人に認められて、それが何だというんだい?」
「人に好かれようとするよりも、人を好きになる方が、断然面白いことだと思わないか。人の目を気にして、あれこれ自分を偽るよりも、あっこの人はステキだな、この人と友達になりたいな。そういう人を見つけて好きになる方が、はるかに楽しいことじゃないか。」
「他人が世界をどう考えようと。世界の側が変わるわけでもなければ、自分の考えが損なわれるわけでもない。」
「信じるものは救われるだろう、信じるというそのこと自体が自らを救うのだ。」
「他人を否定することでしか自分を語れんようなやつは、どうせ語れるような自分なんかありゃせんのだ。」
日本の哲学者、文筆家。東京都港区出身。慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻卒業。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスの対話篇を現代に復活させた『帰ってきたソクラテス』シリーズや、中学生・高校生向けに語りかけ的文体で書いた哲学の入門書『14歳からの哲学―考えるための教科書』などを上梓。
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