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大石内蔵助さんの残した辞世の句【忠臣蔵】1659年4月24日~1703年3月20日

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「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 (辞世の句) 「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」 (辞世の句) 江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった。 良雄は諱で、通称は内蔵助。一般にはこの大石 内蔵助の名で広く知られる。

大石内蔵助さんの残した最後の言葉【忠臣蔵】1659年4月24日~1703年3月20日

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「お先に!」 (最後の言葉) 江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった。 良雄は諱で、通称は内蔵助。一般にはこの大石 内蔵助の名で広く知られる。

良寛さんの残した辞世の句【天上大風】1758年11月2日~1831年2月18日

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「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」 (辞世の句) 江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子ども達と遊ぶことを好み、隠れん坊や、手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたと云う)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子ども達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。

葛飾北斎さんの残した辞世の句【富嶽三十六景】1760年10月31日~1849年5月10日

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「ひと魂で ゆく気散しや 夏の原」 (人魂になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか) (辞世の句) 江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。 代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。

葛飾北斎さんの残した最後の言葉【富嶽三十六景】1760年10月31日~1849年5月10日

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「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、本当の絵師になられるのだが…」 (最後の言葉) 江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。 代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。

二宮尊徳さんの残した最後の言葉【二宮金次郎】1787年9月4日~1856年11月17日

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「葬るに分を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本を植えれば足る。」 (最後の言葉) 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。

坂本龍馬さんの残した最後の言葉【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「残念、残念。」 「おれは脳をやられたからもう駄目だ。」 (微かな声でいってこと切れた。) (最後の言葉) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。