特攻隊員の遺書 佐藤新平曹長【両親へ】

留魂録

「お母さん江」

 幼い頃から思えば随分と心配ばかしおかけしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。
 目を閉じると子供の頃のことが、不思議な位ありありと頭に浮んで参ります。
 悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼い頃「今日の良き日をお守り下さい」「今日の良き日を有難うございました」と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。
 今日になり本当にあの頃からお母さんの教育がどんなにか新平の為になったことでしょう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をおかけしたり。
 苦学と言えば、言えを出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにかかえりたかった事かしれませんでした。
 お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれからあまり家に居る事もなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかった事だけ残念です。
 軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時、あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
 態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂、わざわざ来なくても良かったのに等と口では反対の事を言って了ったりして申し訳ありませんでした。
 あの時お母さんと東京を歩いた想い出は極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。
 あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が祀られるのですよ・・・・。手をつないでお参りしましたね。今度休暇でかえった時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。
 去年の時もそうでした。

「お父さん江」

 お父さん、新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として恥ずかしくない死場所を得ました。お喜び下さい。
 我が侭者の新平、子供の頃から何時も心配ばかりおかけ申し訳ございませんでした。
 御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、結局何も出来ずにしまいました事をお許し下さい。
 随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、文吾は俺の子等と言われたものでした。
 厳格な半面、子供の時から人一倍可愛がって頂いた新平は本当に幸福でした。
 酒に酔われて義太夫や踊をやらされたお父さんの昔の姿がなつかしく思い出されます。
 どうぞお父さん何時までも御壮健で丈夫や洋治を可愛がって下さい。
 書きたい事はいくらでもありますが、今日はこれで止めます。
 日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。
 小雨の降る夕方、お母さんと一緒にかこちゃんのお母さんのお墓参りをした事、天神様へ成績の御知らせに行った事等楽しい想い出は次々とつきません。
 特攻隊の事も早く知らせて呉れゝば、手紙でも出して激励してやったのに、とお母さんは残念がるかも知れませんが、お母さんの気持ちは新平解り過ぎる位解って何時も感謝して居りますから、余計な事を心配しないで下さい。私としてはどうせ直ぐ解る事ですから、早く知らせて心配かけてはと思って知らせなかったのですから、悪く思わないで下さい。
 リウマチや、神経痛に充分注意して、天から与えられた寿命だけは絶対に生き延びなければいけません。
 文夫、洋治もお母さんがよく見守って立派な子供になる様鍛えてください。
 決して気を落としたりして、体をそこねられない様ご注意下さい。
 お父さんの方が後になり変になりました。
 一足御先に失礼します。
 今晩、隊の壮行式があり、一寸酔って居りますので字も乱れております。
 河野、小林先生にも宜敷くお出願いいたします。
 小生必ずや大きな戦果をあげて見せます。
 沖縄沖の戦果にご期待下さい!!

辞世

身はたとへ敵艦と砕くとも
  七度生きむあかきこころは
ありがたき御代にうまれてやくだてる
  そのよろこびにわれはゆくなり

御両親様へ

うみやまにまさるめぐみにむくひなむ
  道をゆくなりいさみいさんで

亡き兄さん江

極楽の
 兄弟酒を
  偲びつつ


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