故人が残した名言集【10月20日】

田部井淳子さんの残した言葉【エベレスト女性初登頂】1939年9月22日~2016年10月20日



「人生は、8合目からがおもしろい」



「すべての基本は平常心。そして、選択の幅を広く持っているほど、難局でも明るく、前向きに受け入れられるのだと思います」



「人生は楽しいもの。決して人を責めず、時間を上手に使い、一つずつ扉をあけていきましょう」



「人間に必要なものは、『自然と読書』楽しむものは『自然を食』大事なものは、『出会い』です」



「一番のストレスは人。人とぶつかることなんですね」



「私は、ぶつかるぐらいなら逃げちゃう。逃げても自分の意思は通す。そうやって私は切り抜けてきた」



「大事なのは平常心。どういう方法で切り抜けられるか、頭で考えることができるのが人間。だからそのときにオタオタしない」



「病気になったことは受け入れるしかない。でもしっかり受け入れたのだから医学的なことは先生にお任せして、ただ体が治療でどんなに辛くても歩かなければ絶対にダメ!という体の声に応えること。それが私にできること」



「五ツ星(ホテル)より満天星」



「山が好きになり、登り続けてきたことで今のわたしがある」



「実際に山に行くと、教科書にはないことがいっぱい出てくるわけですよ」



「富士山のでき方などを事前に勉強していくわけですが、伏流水という意味が分からなかったけれども、こうやって水が出てくるとか、降った水が30年後に出てくるとか、目の前にして理解できるようになるのです」



「地形や植生、たとえば途中で倒木の皮が剥がれているのを見て、これはシカが食べた跡だとか、教科書で見るよりも生々しく分かりますよね」



「おにぎりを食べて梅の種を捨てていいのかだめなのかとか、小さいことでも実際に考えるのです。トイレの問題も大事ですし、教科書にはないいろいろなことを実体験の中で、ああなるほどと感じてくれる高校生が非常に多いのです。体験に勝るものはないと思っています」



「日本の教育では体験に基づくことが少ないと不満に感じています」



「アジア人は、『群れる』というか団体行動をすることが多いと感じます」



「欧米の方は自然の中にいることを楽しむという風潮が強いでしょう。一方、日本人や韓国人もそうかもしれませんが、アジア人は鉢巻して『目指せ頂上』のような面が強いかなと感じます」



「『山の日』というと、どうしても北アルプスや南アルプスという高く大きな山を想像させるかもしれません。けれども、私が多くの方々にもっと知ってもらいたいのは、『日本の里山も山、森も山』ということです」



「どんな山も一歩一歩」



日本の登山家。女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功したことで知られる。

福島県田村郡三春町出身。既婚。一男一女あり。旧姓は石橋。



肝付兼太さんの残した言葉【スネ夫】1935年11月15日~2016年10月20日



「ジャイアン、ジャイアンのくせになぜ先に逝っちゃうんだよ。」

(たてかべ和也さん(ジャイアン役)の葬儀での弔辞)



日本の声優、俳優、演出家。本名は肝付 兼正。81プロデュース所属。劇団21世紀FOX初代主宰。身長:170cm、体重:53kg。

国産のアニメが登場してからは『0戦はやと』、『ビッグX』、『エイトマン』等に端役で出演するようになるが、1965年の30歳直前にマネージャーが藤子作品のキャスティングを担当することもあり、TBS版の『オバケのQ太郎』のゴジラ役でアニメのレギュラーを獲得。当初は「スタジオの外だと面白いのに、中だとつまらない」とマネージャーから言われていた。そんな折、第4話収録時に開き直ってアドリブを入れまくったところ、見学に来ていた藤子不二雄が手を叩いて喜び気に入られた。これ以降、藤子不二雄作品には原作者指名で役を貰い、必ずと言っていいほど出演するようになった。

藤子作品で出演していない作品は『チンプイ』、『モジャ公』など。『ジャングル黒べえ』では初主役となる黒べえを演じ、テレビ朝日版の『ドラえもん』では骨川スネ夫の声を1979年の放送開始以来26年間に亘って担当。



平尾誠二さんの残した言葉【ミスター・ラグビー】1963年1月21日~2016年10月20日



「ラグビーボールを持って走るのは得意でも、タックルが苦手な選手がいたとします。わかりやすく走力80点、タックル30点としましょう。日本の多くの指導者は、タックル技術を上げることに力を注ぐはず。でも、不得意なタックルを鍛えても、せいぜい60点程度。高度化した現代のラグビーのゲームでは、60点のクオリティのタックルなんて通用しません。私は、むしろ選手の好きなこと、得意な技術を伸ばしたい。ボールを抱えての走力は90点以上まで伸びますよ。そして、リーダーは本番の試合で、彼をいかに多く走らせるかを考えればいい。その分をタックルが得意な選手がカバーできる形にすれば大丈夫。」



「私はプレイを貫く軸を、ミスをなくすという考え方よりも、チャンスを生かすほうに置いています。取られたら取り返せばいいじゃないですか。ミスしないことに意識を向けていると、プレーの選択肢が少なくなるだけ。私は選手に自分達のチャンスがあったら全部攻めろ、と指示します。だから、少々の失点は怖くない。」 



「決め事は少なくても、本質的な幹がしっかりしていれば、枝葉は自由に変えられる。周囲の状況が変わったら、すぐに対応できるチームワーク。それが本当の強さ。」



「部下に話を伝えるのが下手なリーダーは、ほとんどの場合リーダー側の受信機が問題です。そこをみんな間違えるんです。何かを伝えようと思ったら、まず相手の一挙手一投足に注意を払い、いまどんな精神状態にあるのか、性格はどんなタイプなのかといったことを見極める。話すのが苦手という人は、説得力より洞察力の方に磨きをかけるべきなのです。」



「普段から部下のことをよく観察しておくことが大事です。それによって、同じ『大丈夫です』という返事を聞いても、声の感じから、『本音は不安なんだな』とか、『今日は自信がありそうだな』というようなことまで察することができるようになります。そうして、相手の気持ちや何を考えているのかを掴んだうえで、それに応じた話し方をすると、伝わりやすさは段違いに高まります。」



「どんなに正しいことを言っても、それを相手が実践しようと思わなければ意味がありません。相手がやる気になって初めて、自分の言いたいことが伝わったことになるのです。ですからリーダーは、何を話すかだけでなく、どう話せばもっと部下が関心を示してくれるか、どうすればより伝わるかを考え、表現の仕方を工夫することが必要です。」



「私はよく『リーダーは面白くてためになる話をしろ』と言っています。『今日は倒れないでプレーしろ』と言われるより、一言、『今日は短パンを汚すな』と言われた方が、どういう意味だろうとその先を聞きたくなるでしょ。もちろん、部下の『ためになる話』でなければ意味がありません。」



「上達のためのアドバイスなどは、部下が実際にやってみて効果が出ることが、非常に大切です。実際に上達すれば、『この人の話は聞いた方が得だ』と思ってもらえますし、自分からアドバイスを求めてくるようになります。」



「ひどいミスをして監督から呼び出され、いつもなら頭から怒鳴られるところを、『次から頑張れ』としか言われなかったら、そのミスは怒鳴られるより、よっぽど印象に残るでしょう。私自身、監督やコーチから言われたことでいまでも覚えているのは、いずれも意外性のある言葉ばかりです。」



「どんな優秀なリーダーでも、持っているネタには限りがあります。なのに、部下に毎日のように話をしていたら、すぐネタが尽きて飽きられてしまいます。すると、肝心な時に相手が興味を持つ新鮮な言葉が見つからない、ということにもなりかねません。ですから、少なくともとっておきのネタは、いざというときに温存しておくんです。」



「10人を前に話すとき、リーダーにとっては1体10ですが、部下はそれぞれ1対1だと思って聞いています。だから私は、これはとくにあいつに聞いてほしいという部分が来ると、その人間の顔を見ます。そうすると、いま自分だけに話しかけてくれているという気持ちになって、真剣に聞こうという気持ちになるのです。」



「私は、リーダーが怒るということは、あまりいいことだとは思いません。よく、『うちのチームは、俺が怒るからいいプレーができるんだ』という指導者がいますが、だから怒った方がいいというのは理屈に合わないでしょう。怒られたからできたというのは、もともとそれができるだけの力があったのです。だから、この場合は、怒られるまで力を出さない個人やチームにこそ問題があると考えなければいけません。」



「部下への指示は最初からあまり細かいところまで決めないことです。むしろ、『ここだけは』という肝心のポイントだけ伝わればいいと考え、指示にはなるべく隙間をつくっておいた方がいいでしょう。そうしないと、部下がイマジネーションを発揮する余地がなくなってしまいます。部下に一律に同じことをやらせる方が効果的という考え方にも一理あります。ただし、それでは個々のモチベーションはあがりませんし、組織のパフォーマンスもすぐに頭打ちになってしまいます。」



「個人の内発的なモチベーションを重視するコーチングの考え方は、私自身の考え方と非常に近いものがあります。ただ私は、『強制して何かをやらせること』を全否定しているわけではありません。スポーツでも仕事でも、明らかに基礎力が不足している場合は、自由を与えても楽しめませんから、反復練習のようなことを強制的にやらせることもやむを得ないでしょう。」



「高校時代の恩師である山口良治先生の指導法はスパルタ方式で、入学した当初は、練習が嫌で嫌で仕方がありませんでした。しかし、苦しい練習を強制させられているうちに、自分が強くなっていくのが実感できました。それで練習が面白くなって、結局、先生に言われなくても、自発的に練習に取り組むようになりました。」



「部下に仕事を強制させる場合は、事前にそれをやらせる意味をきちんと説明することと、必ず結果を出させ、これができるようになったということを、本人にわからせることが重要です。人間というのは現金なもので、最初は嫌々でも、やればできると味をしめた途端、次からは自ら進んでやるようになるものなのです。」 



「私は、リーダーが怒るということは、あまりいいことだとは思いません。しかし、怒らなければならないときもあります。たとえば、チーム全体で約束したことを、できる状態にあったにもかかわらずやらなかったときです。これはチームを裏切り、ほかのメンバーの努力を台無しにしたことですから必ず怒ります。」



「映像は何かをわかりやすく伝えるツールとしてはいいですが、それで人のやる気を高めるのは難しい。ラグビーの試合前に映像を観て気合を入れる、なんて話は聞いたことがありません。そのとき、選手を奮い立たせることができるのは、リーダーの言葉しかないのです。」



「選手を怒るときは、怒られる人間の性格や状況にもよります。1対1で言い聞かせた方が素直になれる相手ならそうしますし、『ここはチーム全体の気持ちを引き締めなくてはいけないな』というときなどは、あえてチームリーダーを全員の前で叱ることもあります。」



「怒られるときというのは、たいてい相手も何が悪いか薄々感づいているので、頭ごなしに叱ると逆に頑なになったり、聞き流されたりします。これでは、せっかく怒ってもこちらが疲れるだけで、あまり意味がありません。とくに最近の若者は、なにくそと逆に奮起する反発係数が低下しているので、強く怒るとへこんだまま戻らないことも少なくありません。『最近の若者はヤワになった』と嘆いても仕方がないので、彼らに合った指導法を工夫していくべきでしょう。」



「怒るにしても褒めるにしても、それがどれだけ効果をあげるかを決めるのは、そこで発せられたリーダーの言葉です。リーダーの一言で、気合が入ったり、やる気が高まったりすることってありますよね。言葉にはそういう力があるのです。」



「話が伝わらないのは自分の話に説得力が足りないからだと考えてしまう。でも、いまのように個々の価値観も違えば、理解力にも差がある時代に、誰に対しても説得力のある話し方があるのなら、私が教えて欲しいくらいです。」



「とにかく相手の話をよく聞くことが重要です。目の前の人が自分の話を真剣に聞いてくれていると思ったら、安心して本音が話しやすくなるじゃないですか。」



「私の考えるチームワークは、1人ひとりがもつ爆発的な力をどう発揮させるかがポイント。無限の可能性を秘めた個人の配置を考え、使いどころを考え、編集するのがリーダーの役割。」



「本番では、人間は普段通りの力さえ出ませんよ。ましてやそれ以上の力なんて期待してはいけない。120%出せなんて無理。80%も出せたら、ようやった。90%出したらやりすぎちゃうかですね(笑)。」



「正解はひとつではない以上、自分たちにとって都合よく解釈してもいい。いまピンチに感じることも、飛躍するチャンスかもしれない。」 



「自分達のチームの強みが出るような見方をしてほしい。ゴール前の状況をピンチと見るか、ここさえしのげば巻き返せるチャンスと見るのか。」



日本のラグビー選手。日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任し、ミスター・ラグビーと呼ばれた。



ルネ・ブリさんの残した言葉【マグナム・フォトグラファー】1933年4月9日~2014年10月20日



「被写体としての人はいなくても、ヒューマン・ストーリーなんだ。」



「ただの風景写真にならないように、どこまで深く感情を入り込ませてヒューマンドラマを伝えられるかが大切だ。」



スイス人の写真家である。チューリッヒに生まれた。写真を学んだ後ライカを手に世界を駆け回った。

1959年よりマグナム・フォトのメンバー。

ル・コルビュジエ、ジャン・ティンゲリー、パブロ・ピカソ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラの写真で有名である。

ブリは20世紀の多くの事件を写真に収めた。

戦争、紛争、芸術家、指導者、世相を反映した映像。

人々はその中に人間と生者の意義を見ることができる。



オスカー・デ・ラ・レンタさんの残した言葉【ファッションデザイナー】1932年7月22日~2014年10月20日



「Things never happen on accident. They happen because you have a vision, you have commitment, you have a dream.」

(物事は偶然に起きるわけではありません。しっかりとしたヴィジョンや責任感、夢があるから起きるのです。)



「Being well dressed hasn’t much to do with having good clothes. It’s a question of good balance and good common sense.」

(いい服を着ているから、お洒落というわけではありません。重要なのは、絶妙なバランス感覚と良識です。)



「Fashion is about dressing according to what’s fashionable. Style is more about being yourself.」

(流行に合わせた服を着るのがファッション。自分らしい服を着るのがスタイルです。)



「Be the designer of your own destiny.」

(運命とはあなた自身がデザインするもの。)



「Walk like you have three men walking behind you.」

(ドレスアップした時、後ろに3人の男性を従えているような意識で歩いて。)



「I don’t really know how to do casual clothes.」

(カジュアルウェアはどうも苦手なんだ。)



「Elegance is a discipline of life.」

(エレガンスとは、人生を鍛錬するもの。)



「Luxury to me is not about buying expensive things; it’s about living in a way where you appreciate things.」

(私にとってラグジュアリーとは、ただ高価なものを買うことではありません。価値を見出す力を持つことです。)



「The qualities I most admire in women are confidence and kindness.」

(私が女性を素晴らしいと思う点は、その自信と優しさ。)



「I am not interested in shock tactics. I just want to make beautiful clothes.」

(ショック戦術には興味がありません。ただ美しい服が作りたいだけなのです。)



アメリカ合衆国のファッションデザイナー。

ドミニカ共和国出身。

保険会社を営むプエルトリコ出身の父、スペイン系の母のもとに生まれた。

7人兄弟の第1子で、唯一の男児であった。

19歳で絵画を学ぶためマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに留学。

金を稼ぐために、新聞やファッション・ハウスのため服を描き始めた。

当時の駐スペイン・アメリカ合衆国大使ジョン・デイヴィス・ロッジの妻フランセスカが、彼の描いたスケッチに目をとめ、娘の着るガウンのデザインをデ・ラ・レンタに依頼した。

このドレスは秋に発行されたライフの表紙に登場した。

彼はすぐにファッション・デザインの世界に関心を持つようになり、スペインをリードするファッション・ハウスのためにスケッチを始めた。

その後すぐに、スペインで最も有名なクチュリエであったクリストバル・バレンシアガのもとで見習いとなった。

彼はバレンシアガを師と仰いだ。

デ・ラ・レンタは、パリのランバンでオートクチュールのアシスタントをすることになったアントニオ・カスティーリョ(のちに衣装デザイナーとなって1971年度のアカデミー衣裳デザイン賞を受賞する)と合流するためスペインを発った。 


デ・ラ・レンタはエリザベス・アーデンで2年働いた後、1965年よりジェーン・ダービーに入った。

同年8月にダービーが死去すると、Oscar de la Renta for Jane Derbyのブランド名で再出発したが、1966年より自身の名前オスカー・デ・ラ・レンタのブランド名に変更した。

1993年から2002年まで、フランスのクチュール・メゾンであるピエール・バルマンのオートクチュールのクチュリエとなった。

彼はフランスのオートクチュール初のドミニカ共和国出身クチュリエとなった。

デ・ラ・レンタは1967年と1968年の2度、コティ賞を受賞し、1973年にはコティ賞の殿堂入りを果たした。

1973年から1976年、1986年から1988年の2度、アメリカ・ファッション協議会(CFDA)の会長を務めた。



秋元きつね さんの残した言葉【ウゴウゴルーガ・せがれいじり】1968年9月12日~2014年10月20日



「『自分だけの感覚』なので、それを形にしたい。」



「失敗しても、平気だから」



「アレコレ考える前に実際やってみたら意外と簡単だったりするから。『やってから考えよう!』。どこが大変か、分かったり、どこが楽かとか。やってみたら意外と簡単だったりするから。」



CG作家。本名:秋元 一秀。有限会社件代表取締役。

1980年代後半、ミュージシャン平沢進 (P-MODEL) のもとで「丁稚奉公」と称して参加。戸川純、あがた森魚などのステージやレコーディングにも参加したが、平沢進の元で学んだAmigaを片手にフジテレビ深夜『アインシュタイン』にて「CG丁稚」として採用され、映像業界へ転身。

その後、個人経営のCG制作者を意味する「CG屋さん」を名乗り始める。主に子供向けのイラストやアニメーションを制作しながら、自身の作品制作を続けていた。

1992年、CG映像を駆使した子供向け番組『ウゴウゴルーガ』に参加し、「とのさま」「がんばれまさおくん」その他色々なコーナーを担当。また2003年 - 2013年に井上雪子とのユニット「ノラビット!」として活動、子供向けのイラストやコンテンツを制作。


一方、インディーズバンド「Hz(ヘルツ)」を主催し、都内ライブハウスで1990年代初頭からCGアニメーションと音楽を同期させた独特のライブ活動を展開。

後に不定期で「ジラファント7」「Spiky Spoon」として同様に映像+音楽活動を行っていた。


1999年、PlayStation用ゲームソフト『せがれいじり』を株式会社エニックス(現スクウェア・エニックス)より発売。17万本を売り上げる。

2001年、横浜トリエンナーレに作品を出品。四畳半の部屋のなかで障子に映されたアニメーションと、サラウンドでミックスされた音楽を聴くという不思議な展示を発表。

2005年の愛知万博で指名アーチストにも選ばれた。



天野祐吉さんの残した言葉【コラムニスト】1933年4月27日~2013年10月20日



「携帯電話は時間を超えた通路になる。」



「必要なのは、ぼくらに見えているはずなのに、ぼくらが見ていない大切な何かに、はっと気づかせてくれるような面白いアイデアであり表現である。」



「『まず、総理から前線へ。』もいいし、そのほうが多くの人に届きやすいとは思いますが、ぼくはどっちかと言うと、『とにかく死ぬのヤだもんね。』のほうが好きです。」



「自己実現という堅苦しい言葉で、高邁なことを考えることは無い。『自分流に楽しく遊ぶ』という考え方が必要なのではないか。自己実現をはかるというのは、好きに遊ぶということ。好きに遊ぶことが一番結果的に自己実現になる。」



「『笑い』を忘れちゃいけない。 こわばった常識や偽りの形式と戦うためにいちばん役立つのは『武器としての笑い』だ。」



「人間のオカシサを、自分のオカシサとして語れる人を、ユーモリストという。」



「広告は詐術です。嘘八百の世界です。そんな嘘八百で人びとをだまくらかし、それで人びとからうらまれるどころか、“いやあ、面白かったよ”と感謝されるような、そんな能力の持ち主こそ広告の天才と言っていいでしょう。」



「優れたデザイナー達の仕事を見ていると、頭から血が出るんじゃないかと思うくらい考えて、最後は感覚にパーンと委ねる。トータルなプロセスではすごく考えているわけで、色々言葉で考えた果てに、その言語では表せないものをパッと出す。」



日本のコラムニスト。雑誌『広告批評』主宰者、マドラ出版社主。

出身地は東京市足立区(現東京都足立区)。松山一高併設中学(旧制松山中学、現・松山東高)、松山南高卒業、明治学院大学中退後、創元社、博報堂を経て独立し、雑誌「広告批評」を創刊する。

広告に対する批評で知られる。



アン・サリヴァンさんの残した言葉【ヘレン・ケラーの家庭教師】1866年4月14日~1936年10月20日



「I do my best and wait for a result.」

(全力を尽くし、結果を待つ。)



「Man is good-looking, is funny and lives clearly under the darkest cloud.」

(もっとも暗い雲の下でも、人間は清らかに美しく、楽しく生きられる。)



「If I fail, it should be redone from first. Because you can be the travel hard.」

(失敗したら初めからやり直せばいいの。そのたびに あなたは強くなれるのだから。)



「The way of a collapse and a hardship where I take others’ notice of no kind of small success is passed.」

(どんなささやかな成功も、他人の目には触れない挫折や苦難の道を、経ているものなの。)



「Wouldn’t it be possible to touch cloud? Still you understand that it’s raining and would you find out that a flower and Daichi who dried ppreciate rain on a hot day? The love is also same with that. Love can’t also touch by hand, but would it be possible to feel the gentleness when love is poured? Because there is love, delight is also springing and the feeling that I’d like to play also occurs….」

(雲に触ることは出来ないでしょう?それでも雨が降ってくるのはわかるし、暑い日には、花も乾いた大地も、雨を喜んでいるのがわかるでしょう?愛もそれと同じなの。愛も手で触れることは出来ないけれど、愛が注がれる時の優しさは、感じることが出来るでしょう?愛があるから、喜びも湧いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ…。)



「I’d like to be the man who can feel the smile which leaks from person’s lip with his happiness.」

(人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間に私はなりたい。)



「Delight is here to forget oneself.」

(喜びは、自分を忘れる事にあるのよ。)



ヘレン・ケラーの家庭教師。通称「アニー」。日本では「サリバン先生」の名で知られている。

ヘレン・ケラーは彼女のおかげで、目、耳、声の三重の身体障害を克服した。

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