故人が残した名言集【10月22日】
緒方貞子さんの残した言葉【世界で最も尊敬された日本人】1927年9月16日~2019年10月22日
「最後は理論ではない。一瞬のカンです。」
「熱い心と、冷たい頭を持て。」
「あいまいで不透明な問題などというものはない。あいまいで不透明と考えるのであれば、それを個々の課題に落とし込み、課題ごとの方策を考えていくことが肝要。」
「忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく。」
「日本のあらゆる若い世代に、『何でもみてやろう』『何でもしてやろう』という姿勢を、意識的に持ってもらいたいと思います。」
「文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」
日本の国際政治学者。学位は、政治学博士。上智大学名誉教授。独立行政法人国際協力機構理事長、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。また日本における模擬国連活動の創始者でもある。
国連は1975年を国際婦人年とすることを宣言。日本社会党の田中寿美子が参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」と提言すると、宮澤喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答。曾野綾子や中根千枝など10人近くの候補が挙がるが、いずれも断られ、結局緒方が口説き落とされた。これにより緒方は女性国連公使第1号となった。
国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表、第8代国連難民高等弁務官:1990年-2000年他を務める。
2001年からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年から2013年まで国際協力機構理事長を務めた。
亀渕友香さんの残した言葉【ゴスペル歌手】1944年11月3日~2017年10月22日
「リズムは人間でいう鼓動、つまり心臓です。心臓のない歌は歌になりません。どんな曲でも、リズムは命なんです。」
日本のゴスペル歌手、ボイストレーナー、女優。
小学校の時、マヘリア・ジャクソン出演映画『真夏の夜のジャズ』を観て彼女の歌声に衝撃を受け涙を流す。以来サッチモ、ゴールデン・ゲイト・カルテット、アレサ・フランクリンなど、ゴスペルミュージシャンをヒーロー&ヒロインとし、ブルース、ジャズ、アフリカン音楽に至るまでの黒人音楽を聴きながら成長。
1968年、R&Bグループ「リッキー&960ポンド」のボーカルとしてデビュー。
1980年、米国人と結婚のため渡米。
1987年に帰国し離婚後、音楽活動を再開。ジャズライブ、ミュージカル、映画音楽、テレビ出演などの活動をしながら、ボイストレーナーとしても多くのミュージシャンを手がける。
1993年、ゴスペルを主とするコーラスグループ「亀渕友香&VOJA(The Voices of Japan)」を結成。現在もライヴ、コンサート活動、アーティスト楽曲コーラス、TVバックコーラス、小中高校での芸術鑑賞会、特別支援学校でのライヴなど、幅広く活動中。
2008年には「第1回・野口英世アフリカ賞」の授賞式および記念晩餐会で、上皇明仁・上皇后美智子夫妻や歴代の内閣総理大臣、アフリカ各国の大統領や国王の前で演奏。
2009年より、ソロライヴ活動を再開。ジャズスタンダードや、アコースティック編成など様々なジャンルでライヴ活動を行った。
1998年から2006年まで「VOJAコーラスアカデミー」の学長を務めた。
2007年には名称を変え、「VOJA Voice Art College」を開校し学長を務めた。
2004年12月にはJ-POPグループの「DEEN」とのコラボレーション楽曲を完成させ、ヒットとなる。
2007年3月には、1974年3月に発売されたファースト・ソロ・アルバム「Touch Me, Yuka」が紙ジャケットCDにて限定生産ながら復刻された。
ボイストレーナーとして指導したミュージシャンには杏里、山下久美子、久保田利伸、大黒摩季、MISIA、SPEED、倖田來未、MAX、小沢健二、和田アキ子、平松愛理、研ナオコ、平井堅、持田香織、和央ようか、米倉涼子、観月ありさ、田中ロウマらがいる。
平幹二朗さんの残した言葉【俳優】1933年11月21日~2016年10月22日
「あくまでクールに言葉を伝えていかなきゃいけない。感情で芝居をするなってことです。」
「ほかに趣味もないし、お金もうけの才覚もない。舞台はアドレナリンが出るんですよ。」
「浅利さんは今も同じことをおっしゃいます。それは『言葉はあくまでも観客に伝わらなくてはならない』ということです。そのためには一節ずつ全て綺麗に『音が切れる』必要がある。」
「言葉をはっきり伝えるのが役者のやるべきこと。」
「金は天下の回りもの?では私の列は飛ばされているとでも?」
日本の俳優・演出家。ケイファクトリー所属。長男は俳優の平岳大。 主に舞台演劇役者の主演として活躍し、国内外で高い評価を受けている日本を代表する名優の一人である。その他にも、大河ドラマなどのテレビドラマや映画などでも活躍した。
ばってん荒川さんの残した言葉【役者】1937年2月8日~2006年10月22日
「長く上手に付き合うには、両方とも疲れんごつ。お互いに尊重しあわなん」
「悪いほうにとったらきりがない」
「幸せは、人と人との巡り会い」
「人を泣かせた涙は、自分に戻ってくる。人を喜ばせた涙も、自分に戻ってくる」
熊本県や福岡県・長崎県を中心に九州地方で長年に渡り活躍した肥後にわか役者、ローカルタレント、演歌歌手、舞台役者である。
本名は米嵜 一馬で、常用漢字でないことから米崎 一馬とも記される。熊本県熊本市出身。
完璧に老女になりきるため、老女の動作や所作を研究していた。その研究の中には「女湯にいる老人をのぞく」というものもあった。しかし、のぞきが見つかり注意されると「俺は勉強のためお婆さんだけを見ているんだ」と反論したらしいが、「お婆さんも女だ」とやり込められたらしい。
柳家金語楼さんの残した言葉【爆笑王】1901年2月28日~1972年10月22日
「憎い鶏にはエサを飼え」
喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家、発明家、陶芸家。本名・山下敬太郎。落語家時代の出囃子は『琉球節』。禿頭を売り物にし、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた。
戦前は主に吉本興業に所属し、戦後は自ら「金星プロ」を立ち上げた。旧字体による芸名表記は柳家金語樓。
大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。
なお、梧楼・緑朗はのちにリーガル千太・万吉と改称。今日の東京漫才の元祖とされた。
中原中也さんの残した言葉【汚れっちまった悲しみは】1907年4月29日~1937年10月22日
「こんな思ひをするのなら 花や草に生まれたかつた」
「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の美しさかな。」
「私の上に降る雪は いと貞潔でありました」
「昔私は思っていたものだった 恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を ゆめみるほかに能がない」
「月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接唇する時に月は頭上にあるでせう。」
「汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む」
「幸福は、和める心には一挙にして分かる。頑(かたくな)な心は、不幸でいらいらして、せめてめまぐるしいものや数々のものに心を紛らす。そして益々不幸だ。」
「思えば遠くきたもんだ 此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであろうけど」
「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」
「それに陽は、さらさらと さらさらと射しているのでありました。」
「土手づたい きえてゆくかな うつくしき さまざまの夢。」
「空は晴れてても、建物には蔭があるよ」
「月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちていた。」
「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けましょう。」
「あれはとおいい処にあるのだけれど おれは此処で待っていなくてはならない」
「私はもう歌なぞ歌わない 誰が歌なぞ歌うものか」
「青い空は動かない、雲片一つあるでない。」
「ああ おまえはなにをして来たのだと…… 吹き来る風が私に云う」
「春が来たって何になろ あの子が返って来るじゃない」
日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。
中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。
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