故人が残した名言集【11月22日】
メアリー・ケイ・アッシュさんの残した言葉【化粧品会社メアリーケイの創業者】1918年5月12日~2001年11月22日
「If you think you can, you can. And if you think you can’t, you’re right.」
(自分ならできると思う。あるいは自分にはできないと思う。どちらも正しいの。)「Everyone wants to be appreciated, so if you appreciate someone, don’t keep it a secret.」
(誰でも高く評価されたいと思っている。だから誰かを称賛するなら隠しちゃだめよ。)「Don’t limit yourself. Many people limit themselves to what they think they can do. You can go as far as your mind lets you. What you believe, remember, you can achieve.」
(自分に限界をつくってはいけない。多くの人が自分のできることに限界をつくっているわ。あなたの心ができると思う限り前進できるの。忘れないで、あなたが信じることは、成し遂げることができるのよ。)「Aerodynamically, the bumble bee shouldn’t be able to fly, but the bumble bee doesn’t know it so it goes on flying anyway.」
(航空力学的にはマルハナバチは飛べるはずがないの。でもマルハナバチはそんなことを知らないから、とりあえず飛び続けているのよ。)「We treat our people like royalty. If you honor and serve the people who work for you, they will honor and serve you.」
(わたしたちは社員を王族のように扱います。社員を敬い、社員に仕えるなら、彼らも同じようにあなたに接してくれます。)「Mountain-moving faith is not just dreaming and desiring. It is daring to risk failure.」
(夢や願望を抱いているだけでは山は動かせない。失敗のリスクをあえて負う信念が必要です。)「Most people live and die with their music still unplayed. They never dare to try.」
(ほとんどの人は自分の音楽を奏でることなく人生を終えるのです。あえて試みようともせずに。)「Honesty is the cornerstone of all success, without which confidence and ability to perform shall cease to exist.」
(誠実さはあらゆる成功の礎です。誠実さがなければ、物事を遂行するための信用も能力も存在しえないでしょう。)「The greatest pollution problem we face today is negativity.」
(今日わたしたちが直面している最大の公害問題とは、マイナス思考です。)「Ideas are a dime a dozen. People who implement them are priceless.」
(アイデアそのものには、二束三文の価値しかない。しかしそれを実行しようとする人には、無限の価値がある。)「When you come to a roadblock, take a detour.」
(行く手をふさがれたら、回り道で行けばいいのよ。)「People fall forward to success.」
(人は成功に向かってつまずく。)「No matter how busy you are, you must take time to make the other person feel important.」
(どんなに忙しくても、相手に自分は尊重されているんだと感じさせるようにしなければいけません。)「Sandwich every bit of criticism between two layers of praise.」
(どんなに小さな批判も、ほめ言葉というパンの間にはさみ込むものよ。)「The speed of the leader is the speed of the gang.」
(リーダーのスピードが、部下のスピードになる。)「Do not desire to fit in. Desire to lead.」
(溶け込みたいと思ってはいけない。導きたいと願うのです。)「A mediocre idea that generates enthusiasm will go further than a great idea that inspires no one.」
(誰もピンとこない偉大な思想よりも、やる気を起こさせる平凡な考え方のほうが、受け入れられるもの。)「You can have anything in this world you want, if you want it badly enough and you’re willing to pay the price.」
(強く望み、代償もいとわないならば、この世界であなたの望むものは何でも手にすることができる。)「Give yourself something to work toward – constantly.」
(前進するために必要なものを自分に与えなさい。常にね。)「Dare to risk public criticism.」
(世間の批判のリスクをあえて負うのです。)「A good goal is like a strenuous exercise – it makes you stretch.」
(よい目標とは激しい運動のようなもの。あなたの成長を促進してくれるでしょう。)アメリカの実業家であり、メアリーケイコスメティックスの創設者でした。
アメリカで知らない人はいないと言ってもいいほど有名な女性起業家。
財力もコネクションも何もないゼロの状態から化粧品会社「メアリーケイコスメティックス」を立ち上げると、短期間で業界トップクラスの会社に育て上げ、全米上位500社の企業にランクインするまで成長させました。
大宅壮一さんの残した言葉【一億総白痴化】1900年9月13日~1970年11月22日
「テレビが生まれた時、一億総白痴化が始まる」
「自分たちの生活は、最小限に切り詰めて、余分なものは人に施せ。人間として生まれた以上は、できるだけの仕事をして死にたい。」
「50人味方がいて、50人が敵。それでいいじゃないか。全部を味方に引き入れることなんて、できっこない。」
「実生よりは、接木の方によい実のなることが多い ―新しい祖国をつくる人々に。」
「駅弁を売るところに大学あり。」
日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。兄の孫は医師の稲本潤。
ジョン・F・ケネディさんの残した言葉【JFK】1917年5月29日~1963年11月22日
「我々が未来に信頼を持つには、まず我々自身を信頼することである。」
「我々は真に勇気ある人間であったか?すなわち『敵に対抗する』勇気のほかに、必要な場合には『自己の仲間に対しても抵抗する』だけの勇気を持っていたか。『私利私欲に抵抗する』勇気だけでなく、『多数の圧迫に抵抗する』勇気を持っていたか!」
「行動にはつねに危険や代償が伴う。しかしそれは、行動せずに楽を決めこんだ時の長期的な危険やコストと較べれば、取るに足らない。」
「中国語で書くと、危機という言葉は二つの漢字でできている。ひとつは危険、もうひとつは好機である。」
「目的と方針がなければ、努力と勇気は十分ではない。」
「私たちは、今までになかったものを夢見ることができる人々を必要としている。」
「我々は、望みに向かって進む時、恐れに行く手をふさがせてはならない。」
「今、我々に必要なのは何か。それは満足感ではない。勇気だ!」
「やらねばならないことをやる。個人的な不利益があろうとも、障害や危険や圧力があろうとも。そしてそれが人間倫理の基礎なのだ。」
「誰かが僕を撃つつもりなら、今日やるべきだ。」
「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」
「その道が千里またはそれ以上であったとしても、この国土の、この時代の我々が、その第一歩を踏み出したことを歴史に記録させようではないか。」
「もし自由社会が、貧しい多数の人々を助けることができなければ、富める少数の人々も守ることができないだろう。」
「自信を持って恐れることなく、私たちは努力を続けなければならない。人類絶滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって。」
「我々は言葉だけでなく、行為でそれを示さなくてはならない。」
「楽な人生を願い求めるな。より強い人間になれるように願いなさい。」
「勝ち戦には100人もの将軍が名乗り出るが、負け戦は一人で責任を負うのみだ。」
「あなたの敵を許しなさい。だが、その名前は決して忘れるな。」
「事実をありのまま率直に語ることは、未来に絶望することでも過去を告発することでもない。」
「屋根を修理するなら、日が照っているうちに限る。」
「中間管理職と真のリーダーシップとの微妙な半歩の違いは、プレッシャーの下で優雅さを保てるかどうかだろう。」
「私たちが抱える問題は、人間が作り出したものだ。したがって、人間が解決できる。人間の理知と精神は、解決不可能と思われることもしばしば解決してきた。これからもまたそうできると私は信じている。」
「恐怖から交渉をしてはいけない。しかしまた、交渉するのを恐れてもいけない。」
「良い成果を上げる政府の基礎となるのは、国民の信頼である。」
「平和的革命を失敗させる人物は、暴力的革命を不可避のものにする。」
「人類は戦争に終止符を打たなければならない。さもなければ、戦争が人類に終止符を打つことになるだろう。」
「どのような平和を私は言っているのか?どのような平和を我々は探求しているのか?私が言っているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせる平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立て得る平和である。それはアメリカ人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、我々の時代だけの平和ではなく全ての時代の平和である。」
「清らかな良心のみを我々の確かな褒賞とし、歴史に我々の行動の最終的な審判をゆだね、我々の愛する国土を導くべく前進しようではないか。」
「我々すべてが等しい才能を持っているわけではない。しかし、我々すべては才能を伸ばす等しい機会を持つべきだ。」
「人は他人とは違う何事かをなすことができる。だったら誰もがそうすべきである。」
「平和は憲章や盟約だけに根ざすものではない。それは人々の心情の中に根ざすものである。」
「何といっても、我々の最も基本的なつながりは、誰もがこの小さな惑星に住んでいるということにあるのです。誰もが同じ空気を吸っているのです。誰もが子供たちの未来を慈しんでいるのです。」
「互いに相違点があることは認めよう。たとえ今すぐ相違点を克服できないにしても、少なくとも多様性を認められるような世界を作る努力はできるはずだ。」
「富は手段であり、その目的は人間である。物質的な富は人間の向上のために用いられなければ意味がないと言ってよい。」
「知識が増すほど、われわれの無知が明らかになる。」
「学問を伴わぬ自由は危険であり、自由を伴わぬ学問は空虚である。」
「変化とは人生の法則である。過去と現在しか見ない人は、確実に未来を見失う。」
「一人の有権者が民主主義に対して無知であることは、あらゆる安全を低下させる。」
「私は大統領になる時に若すぎると言われた。君は野球をするには年を取りすぎだと言われた。しかし今、どちらも全く的外れであることがわかった。」
「人は死に、国は興亡するかもしれない。しかし思想は生き続ける。」
「われわれは時間を道具のように使わねばならない。すがりつく松葉杖としてではなく。」
「勝利には千人の父親がいる。だが、敗北は孤児である。」
「大きな失敗を恐れない者だけが、偉大なことを成し遂げる。」
アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。
名前のイニシャルをとってJFKないし通称であるジャックと呼ばれることも多い。
1960年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補として指名を受け、対立候補の共和党のリチャード・ニクソンと歴史的な接戦の末、わずかな票差で破り合衆国大統領に当選、翌1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。
大統領就任時の年齢は43歳で、アメリカ合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としてはもっとも若い大統領であった(就任時42歳であったセオドア・ルーズベルトは選挙ではなく、副大統領からの昇格であった)。
徳川慶喜さんの残した言葉【江戸幕府最後の将軍】1837年10月28日~1913年11月22日
「これからはお前の道を行きなさい」
「予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」
「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」
「将軍はよほどの奮発にて、決して油断ならず」
「どうせ助からぬ者を救おうといえば、自分自身が危うくなる」
「昼も居間の雨戸を閉めて、そこへ2寸ほどの竹をところどころにはさんで光を入れた」
「勅許も得ないで外国と条約を結ぶとは何事か。」
「あまかけり いづくの空に いますとも 心はゆきて つかへまつらん」
「将軍になどなりたくない」
「余は有栖川の宮の孫なり」
「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」
(辞世の句)江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。
在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。
御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。
徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。
明治2年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
一方で、旧幕臣が訪問しても渋沢栄一など一部人以外はほとんど会わなかった。
共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。
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