故人が残した名言集【11月28日】

勝谷誠彦さんの残した言葉【辛口コメンテーター】1960年12月6日~2018年11月28日



「『イメチェン』は今回(兵庫県知事選)の戦略の最大の失敗。訳が分からないうちに髪を切られ、スーツを着させられ、写真も撮られて。結果、誰だか分からない。だけど陣営は大まじめにそうさせた。僕も選挙って全く知らない世界だからさ、そういうものなのかなと思うじゃない。でも大間違いだと思うよ。このままでさ、普通にやればよかったんだよ。」



「日本の政治を根底から狂わせているのは組織票だと思いますね。組合員であるとか、会社員であるということで投票行動を規定されるのはおかしい。まだ日本人はそんなものに縛られているのかなと、悲しくなるよね。もうちょっと、自由でいいんじゃないかな。」



「野党が駄目なのはつらい顔をしてつらさばかり訴えるところ。やらなきゃいけないことはたくさんある。それをどうやるかが大事で、つらいことでも明るく楽しくやればいいんですよ。」



「今後については、分からない。人生、その日の朝、起きた気分で決めているから。」



日本のコラムニスト。日本写真家協会会員。



トマス・アルタイザーさんの残した言葉【神の死の神学】1927年9月28日~2018年11月28日



「神は死んだか」



アメリカ合衆国の自由主義の神学者である。

フリードリヒ・ニーチェの神の死の概念を神学に盛り込んだ「神の死の神学」で有名である。

1957年にゲイブリル・ヴァハニアンは『神は死んだ』という書物を著した。

これは、当時起こっていた信仰復興運動を意識するものである。



大塚明彦さんの残した言葉【ボンカレーの生みの親】1937年7月21日~2014年11月28日



「自分でよいと判断したらすぐ一歩前に出ろ。企業理念と社会的責任が明確なら、自主性を持って各人が自由にやれ。」



日本の実業家。大塚製薬元代表取締役社長、大塚ホールディングス初代会長。

レトルトカレー『ボンカレー』や健康飲料『ポカリスエット』、栄養食品『カロリーメイト』など各ジャンルの草分け的存在である商品の企画・発案者であり、医薬品事業の研究開発を強化し、健康分野の拡大を図るなど、大塚グループの一時代を築き上げた。



菅原文太さんの残した言葉【俳優】1933年8月16日~2014年11月28日



「オレもぐうたら人間でね、本質は。仕事のないときは家でゴロゴロしている。たかだか人間、気軽にやったほうがええわな。」



「考えてみりゃあ人間なんか生きていること自体がバクチのようなもん。」



「政治の役割はふたつあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!」



「沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。」



「アメリカにも、良心厚い人々はいます。中国にもいる。韓国にもいる。その良心ある人々は、国が違えど同じ人間だ。」



「戦後の日本はすべてがモノとカネに結びついてきた。そこが変わらないとな。」



「本来、人の命を養うための営みが、利益や効率を追い求めて、いつの間にか商業や工業のようになってしまった。」



「スネに傷を持たない人間なんていないじゃないか。どこかで間違いのひとつやふたつ犯している。真っ白な無謬な人間なんていない。」



「今の世の中は人間をテレビ画面くらいの小さな枠に収めようとする。俺たちが生きてきた映画の枠は大きなスクリーンだったから、誰でも受け入れた。」



「ヘンクツや異端者と呼ばれてもいいじゃないか。変わり者の生き方の方が面白いよ。」



日本の俳優、声優、ラジオパーソナリティ・農業従事者である。愛称は文ちゃん・文太兄い。 父は洋画家、詩人の狭間二郎。妻は菅原のマネージャーを務めており、長男は菅原加織。他に娘が2人いる。

宮城県仙台市出身。



白洲次郎さんの残した遺書【実業家】1902年2月17日~1985年11月28日



「葬式無 用 戒名不用」



日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県芦屋市出身。

連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。

吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。


松尾芭蕉さんの残した言葉【奥の細道】1644年~1694年11月28日


「物言へば 唇寒し 秋の風」

(口を開けば調子にのり、人の悪口を言ったり余計なことを口走り、他人から恨まれたり、叱られたりと、後悔することになる。口は災いのもとなのだから黙っているのがいい。)



「月日は百代の過客にして 行きかう年も また旅人なり」

(月日は永遠に旅をする旅人のようなものである。去ったと思えばまたやってくる旅人のようである。)



「おろかなる者は 思ふ事おほし」

(愚かな人間は、心配したり思い悩むことが多い。)



「古池や 蛙飛び込む 水の音」



「不易流行。」



「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求むべし。」



「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」



「山は静かにして性をうあしなひ、水はうごいて性を癒す。」



「問(とい)に答へざるはよろしからず。」



「他の短を挙げて、己が長を顕(あらわ)すことなかれ。人を譏(そし)りておのれに誇るは甚(はなは)だいやし。」



「耳をもて俳諧を聞くべからず、目をもて俳諧を見るべし。」



「好みて酒を飲むべからず、饗応に(きょうおう)より固辞しがたくとも微醺(びくん)にして止(や)むべし、乱に及ばずの禁あり。」



「風雅の流行は、天地とともにうつりて、只つきぬを尊ぶべき也。」



「倭歌(やまとうた)の風流、代々にあらたまり、俳諧年々に変じ、月々に新也。」



江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。

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