橋本治さんの残した言葉【小説家】1948年3月25日~2019年1月29日
「『大きくなりたい』という『欲望』に支えられた経済の論理が技術革新に結び付き、世界は発展してきました。でも私たちはきっと、大きな時代の転換点に立っているんです。生き残るために大きくならないといけないというのは、バブル期以前の考え方です。大きくなくても、適正な大きさで小回りが利くほうがいいんだという自信を持つべきだ。」
「文章を書くことについては……どんなときにも、15歳の男が背伸びしてわかろうとしたときに理解できるものになっているように準備しておかなければいけない、とは思っているんです。ただ、そう思っているから、私はどんな本でも、『これはわからないかもしれないけれど』なんていう遠慮会釈はないんです。年齢や世代に対する遠慮会釈もありません。」
「作家というものは描写をするのが仕事でしょう。だから、前提になるような知識なんて持たないまま、これは何かヘンだと感じたら、そのヘンさを描写していくことからはじめればいいと思っているんです。だから、どんな本も延々と長くなって、しかも単純なキーワードはひとつも出てこないものになりますね。専門的な世界で符号のように通用しているものの考え方を『ヘンだ』と思ってしまったら、もういちいち脇道に逸れたところから考えていくしかないんです。」
「いまの若い人は情報を仕入れることに興味があるみたいだけど、私は情報というものを仕入れないんですよ。専門的な情報を集めてものを見るというのは『何かをわかるためのカギがある』と考えているから出てくる行動でしょう?でも、私はそういうカギを持たないままで、セーターの毛糸をほどいて玉をつくっていくみたいなことをしているんです。絡まったものごとをほどくことなら誰にでもできると思っているので、その絡まりをほどくことで『何が問題になっているのか』を形にすることから考えていきます。もともと、カギにあたるような重要な公式を覚えるのが嫌いですし、そういうふうにものを考えるのは、ほかの勉強ができる奴がやるだろうと思って放っておいたんです。」
「ある専門分野で特定の問題を解くためのカギというのは適用範囲も狭いでしょ。マルクス主義のカギとか構造主義のカギとか、カギの使える範囲は決まってしまっていますので。それで、私は広大な現実から立ち上がってくるようなところからしかものを考えないようにしているんです。そうやって目の前の現実からものを考えることって、日本人は得意なはずなんですよ。」
「私自身としては、現在の問題については、過去がかつてこうであったというところからの類推でしか見ていません。だから、既成のイデオロギーから何かを構築しようという気はまるでないんです。」
「ものごとを自分でトータルに知るのではなくて、情報はいちいち細分化されて専門化されて、各分野において個人が自立していればいいんだみたいに思い込まれているけど、そういう先入観でものごとをとらえていても、たとえば『この廃墟からどう立ち上がったらいいんだ』みたいなゼロから出発するためのノウハウはないままになってしまうんですよ。でも、本当はいまの時代はそういうものこそが求められているのではないでしょうか。」
「いまはそもそも、若い人たちは苦悩する体力もなくしてしまって、心を病む方向に向かっていってしまうなんて時代にもなっていますよね。若い人が心を病む方向に行ってしまいがちなのは、『悩んで当然』というかたちで体力を養わなかったのが第一でしょう。人はうっかり明日のことを考えてしまうと、明後日、明々後日と、どんどん先のことばかり考えてしまうんです。そこからつい、いまの自分のままの状況で遠い未来の虚無みたいなものを見てしまって、そういう未来の虚無みたいなものを解決する力は自分にはないなんて思いこんでしまうのではないでしょうか。私だって、『まだ今日や明日のこともやっていないのだから』と思い直すようにはしているんですが。」
「こちらができるのは、吐きだせるものはいっぺんに吐きだしてしまうことです。私が『窯変源氏物語』を書いたときでいえば、光源氏の全盛期の桜を各段階で、ピークの美しさを表現するのだから、ともう桜の美しさについてのボキャブラリーはすべて出しつくしてしまっていいという覚悟で臨みました。それで実際に出し尽くしてしまって、そのあとにも、桜の描写は出てきたのですが、そうなったらまた別のボキャブラリーが出てきました。そんなふうに、何らかの形で吸収しておいたものは出そうとすれば出てくるので、まずは持っているものを惜しげもなく使い切ってしまった方が楽なのではないでしょうか。みんな、そういうところで妙にケチなんだけど、下手にストックをとっておいても自分自身の二番煎じでしか生きていけなくなってしまうと思います。」
「以前なら、豊かな時代の中で遊びながら警鐘を鳴らすなんてこともできたけれど、いまはそういう余裕もありませんし。ただ、そんなときでも、自分がふと見上げたときに存在している空を『美しい』と思えなくなったら、人間はおしまいだろうなとは感じているんです。」
「私はもともと小説現代の新人賞で選外佳作というデビューの仕方でしたから、なぜ受賞ではないのか、ランク落ちの理由は何なのかとずっと考えていて、そこで、作家には技術が必要で、プロの水準に達していなかったんだろうと思うようになりました。だから自分の基準や個性なんてどうでもよくて、プロの作家のやっていることに自分は届いているのだろうかと問いながら書いてきたんです。」
「私は薩摩琵琶の作詞なんかもしているのですが、たとえばその歌詞の判断基準って、歌として聴いたときに、『誰がつくったかわからないけれどこれはいいな』と思えるかどうかなんですね。」
「私は地の文章について、自分を消すという作業しかしていないんです。世の中は他人だらけだけど、どこかに他人と自分の共通項みたいなものがあるから他人のことが書けるわけで、他人を書くのに忙しくしていたら、自分のことはどうでもよくなるんですよ。」
「小説の主役は読者であって、たまに作者が主役になっている小説を読まされるとつらいのは、描写とはたとえ一人称で書かれていても、これは他人にとってはどう見えるのだろうかという視点が入らなければ小説ではないと、私が思っているからなんです。」
「ひとつの時代をひとつの視点で見るのには限界があって、そういうひとつだけの視点から解放されて、ものごとを『自分には興味がないことだけど、これを必要としている他人がいるかもしれない』と考えることで見えることなんて、いくらでもあるんです。」
「ややこしい問題を考えるときには、『自分』なんてものが見えなくなることを最優先にすべきだと考えてきました。プロの仕事とはそういうもので、作者の姿も演者の姿もなくて、ただ『見ている人がそこに自分の見たいものを見ている』という状況をつくりださなければいけないと考えていたんです。だから、考えたり書いたりするときには自分の個性なんて放っておきます。」
「私は自分の手でつくったデータしか、情報といえるものは活用していません。最近の人たちは、最新の情報が大切で、データが必要だという割には、自分でつくったデータは持っていないのかな、とは感じるんです。」
「気力で体力を補うみたいなことをしたら、途端にガタっと落ちたものしか書けなくなります。」
「いまの若い人たちが絶望的になりやすいのは、今日がどうやって明日につながるかについては考えないまま、『あんまり変わらない明日しかないよ』と思い込んで『さらに、じゃあ』と10年後や20年後を見てしまうからなんでしょうね。でも、そもそもそんなふうに未来の虚無みたいなものを見てしまうのは自分の現在に立脚できていないからであって、今日できることをやることが、少しずついい明日をつくっていくことにつながるんじゃないの、と思うしかないわけです。」
「生きていくことはどこかからか自分のエネルギーを湧き上がらせるような作業で、そのエネルギーって、自分の中にあるものをすべて吐き出してもまだ出てくるはずと思うところから生まれるんです。」
「同世代ばかりを見ていると、人間ってちゃんと歳をとれないんですよね。私はある時期に、10歳ぐらい年下の人たちの『これがわからない』という問いに答えていくことで人はひとつずつ大人になるんだ、と実感したぐらいです。」
「人間は、わかろうと背伸びをして、わからないことを咀嚼する中でしかものごとをわからないってところがあるのではないでしょうか。そういう背伸びを拒絶するようになったら、人間はもうおしまいでしょう。」
日本の小説家、評論家、随筆家。
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