故人が残した名言集【2月13日】
吉岡逸夫さんの残した最後の言葉【ジャーナリスト】1952年1月22日~2018年2月13日
「たくさんの方々が周りに集まってきてくれて、世話を焼いてくれるなんて、僕はなんて幸せ者だろう。僕は全部すべきことはした。今は死ぬのにちょうどいい。」
(最後の言葉)日本のジャーナリスト。青年海外協力隊でエチオピアで活動後、カメラマン、ジャーナリストとして、主に海外で活動。桜美林大学非常勤講師。青年海外協力協会理事。
鈴木清順さんの残した言葉【映画監督】1923年5月24日~2017年2月13日
「戦争の体験談とは親が子供にすべきもので他人にすべきものでは本来ないような気がする」
「不得手なものからは奇蹟は生まれない。」
日本の映画監督、俳優。本名は鈴木 清太郎。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。
山本兼一さんの残した言葉【小説家】1956年7月23日~2014年2月13日
「20代は目の前の仕事をこなすことに必死で、特に展望はありませんでした。20代は迷うこと多いでしょう。それでいいんだと思います。ただ、一つ言っておきたいのは、最終的な目標を定めておいたほうがいいってこと。目標さえ持っていれば、達成できるかどうかはわからないけど、少しずつ近づいていくことはできる。」
「僕も会社を1度辞めたけど、その転職がステップアップになるかどうかが大きな問題ですよね。最悪なのは、人が嫌いで会社を辞めること。人間関係が悪いとか、上司が嫌いなんていう理由で辞めても、何のプラスにもなりません。」
「いい仕事をするためのヒントって、実は周りにたくさん転がってるんですよ。でも、真摯な態度で臨まないと、ヒントをヒントだと気付かない。自分のものにできないんです。」
日本の小説家。 京都市生まれ。京都市立紫野高等学校、同志社大学文学部文化学科美学及び芸術学専攻卒業。出版社、編集プロダクション勤務、フリーライターを経て作家デビュー。 松尾芭蕉などを専門とする国文学者・山本唯一の長男として京都府に生まれる。先祖は代々新潟県真宗寺院の僧侶。
市川崑さんの残した言葉【映画監督】1915年11月20日~2008年2月13日
「何をやってもダメという時、そんな時はパスの一手。 一戦戦えるだけのカードが来るまで待つのが一番。」
「スランプというのは、ものが作れなかったり、仕事の口がかかってこなかったり、いろいろの場合がありますが、そんな時こそ、苦しいが飛躍するための力を養うチャンスだ、スランプとの共存、これは、発展しようとしたら一番大切なことだ。」
日本の映画監督。アニメ、人形劇制作者。 娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。また日枝久、角川春樹、松岡功ら経営者とも親しかった。有馬稲子との交友も有名であった。
植村直己さんの残した言葉【登山家】1941年2月12日~1984年2月13日
「始まるのを待ってはいけない。 自分で何かやるからこそ 何かが起こるのだ。」
「そうだ、ヨーロッパ・アルプスへ行こう。そして、日本にない氷河をこの目でみよう。」
「英語ができないフランス語が出来ないなどと言っていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体を張って冒険をやるべきだ。」
「僕はとても臆病なんですよ。高所恐怖症なんで、高いところでは足が震えます。」
「いくら私が冒険が好きだからといっても、経験と技術もなくて、また生還の可能性もない冒険に挑むことは、それは冒険でも、勇敢でもないのだ。無謀というべきものなのだ。それがどんなに素晴らしい挑戦であったにしても、生命を犠牲にしては意味がない。」
「私は先へ進まなければならない。憂鬱でも気が重くても、それが私の運命のようなものなのだから、勇気をふるい起こして、先へ進まなければならない。」
「私は、その日はどうするか決心もつかずにホテルに帰った。こうして、目のあたりにアマゾンの恐ろしさを知らされると、逆に私の決心はいよいよ固まっていくのであった。」
「何が何でもマッキンリー登るぞ。」
「全力投球で自分のやりたい事をやることは楽しいことである。」
「私は初志を貫徹しようと決心した。山に登るときと同じように全精力を傾けてことを成せば、たとえ厳しい河といえども、下れないことはないと思った。私はそう決心するともう完全にアマゾンの虜になってしまった。決心のつかないころは、恐怖がつきまとったがいったん決心がつくと私の心はおちついてきた。」
「これまでの私の山を舞台にした自然との苦闘と違い、アマゾンへの挑戦には、恐ろしい中にも別なスリルの味わいがあった。つね日ごろ宗教心などひとかけらもない私がとにかく真剣に神に祈ったのだから不思議なものだ。しかし自分の力で切りぬけられるときには、祈るよりは立ち向かうべきことを学んだ。」
「いや、オレはなんとしてでもやらねばならないのだ。単独登攀はいつの場合にも危険なのはわかっている。それを承知の上でやっているのだから、自分で危険に直面もせず、他人にいわれただけで中止するとはまったくいい訳にもならない。」
「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい。」
「君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供の時、目に映る世界は新鮮で全てが新しかった。医者でも登山家でもやろうと思えば何でも出来た。しかし、年をとると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさも見ようとしなくなってしまう。大部分の人が夢を失っていく。」
「私はモン・ブラン、キリマンジャロ、アコンカグアとひとりで登り続け、そして1970年の春、単独ではなかったが、アジアのエベレスト、さらにまたひとりでいま世界の五大陸の最後の山、北米のマッキンリー登頂にも成功することができたのだ。」
「旅の出発には、いつもどこから湧いてくるかわからぬ不安感が心のなかに生れ、私を苦しめた。いまも、またそうなのだ。闘志をかきたて全身をひきしめているつもりなのに、漠然とした不安がときおり心を横切る。そして、これをふり払うには、実際に行動を起こすほかないことを、私は知っている。」
「帰る場所は、やっぱり女房のもと。」
「決心したからにはたとえ座礁するとわかっていても、神風特攻隊のように、出撃あるのみだ。」
「山は他人のために登るものではないと思う。誰からも左右されない、自分の意志ひとつで行動できる単独行であれば、それが人のためでなく自分のためであればあるだけ、すべてが自分にかえってくる。喜びも、危険も。」
「単独登山はグループ登山以上に危険である。安全のためザイルを結ぶ相手がいない。また、どんな事故が起こっても、助けを求めるべき相手がいない。あらゆる障害を自分ひとりで切りぬけなければならないのだ。」
「自分で危険に直面せず、他人に言われただけで中止するとはまったくいい訳にもならない。」
「みんな、それぞれが、何か新しいことをやる、それはすべて冒険だと、僕は思うんです。」
「物資に恵まれている中では、人間本来のものは失われている。」
「いつも前進があるだけだった。」
「私はきょうまで、ひとつひとつ強い決意のもとに全精神力を集中してやりぬいてきたのだ。必ずやりぬける自信がある。ただ、思うだけではない。南極横断に出発する前、体力をつけ、精神力のトレーニングにより、精神を強靭にすれば、道は必ず開けると私は思う。」
「人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります。」
「努力している人を笑うこと。 それは、何よりも最低な行為である。」
「必ず壁はあるんです。それを乗り越えたとき、パッとまた新しい世界がある。だから厳しく自分を鞭打ってやってきたときは、振り返ってみたとき実にさわやかです。」
「冒険とは、生きて帰ることなのである。」
日本の登山家、冒険家。兵庫県出身。1984年に国民栄誉賞を受賞。
リヒャルト・ワーグナーさんの残した言葉【楽劇王】1813年5月22日~1883年2月13日
「君たち、新しいものを創りたまえ。」
「音楽は激情の言語だ。」
「決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、単に正しいことが出来るのみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない。」
「喜びはものの中にあるのではない。我々の心にあるのだ。」
「仕事をする時は上機嫌でやれ。そうすれば仕事が捗るし、体も疲れない。」
「子どもは大人の父である。」
「決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、単に正しいことが出来るのみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない。」
「我ら、この地上にありて生きる限り、歓びより歓びへと導くは自然の恩恵なり。」
「正しいこと一つをするのは、間違い一つをした言い訳より、時間がかからない。」
「自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ。」
「私は音楽を、愛という以外の形では理解できない。」
「感性を通じてのみ、余すところ無く受け入れられ理解される。」
「習慣は、浅はかな人々を支配する。」
「『さすらい』と『変化』を愛するのは生ある者である。」
「自然は、それを愛する者の心を裏切るようなことは決してない。」
「喜びは何かの中にあるのではなく、私達の内側にある。」
「想像が現実を生む。」
歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。ワグナー、ヴァグナーとも書かれる。 ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。
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