故人が残した名言集【6月15日】
ダニエル・キイスさんの残した言葉【アルジャーノンに花束を】1927年8月9日~2014年6月15日
「他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知識など空しいものです。人間のこの特性を欠いているひとびとは、残忍な嘲笑と空威張りの仮面のかげに隠れるものです。」
「一瞬だれかと膚が触れあったりすると、枝と幹と深い根の間のつながりを感じる。そうした刹那、私の膚は薄くはりつめ、そしてつながりの一部になりたいという耐えがたい渇望が、私を夜の暗い街の片隅や、袋小路へさまよい出させる。」
「高価な車を買う人々は『新しい、心踊るもの』の仮面をかぶった『古い、お馴染みのもの』を求めている」
アメリカ合衆国の作家。ヒューゴー賞を受賞した中編とそれを長編化してネビュラ賞を受賞した『アルジャーノンに花束を』で知られている。オハイオ大学名誉教授。
2000年、アメリカSFファンタジー作家協会はキイスに名誉作家 の名誉を授与した。
酒井田柿右衛門(14代目) さんの残した言葉【有田焼】1934年8月26日~2013年6月15日
「伝統と言えば古臭いものだと思われるかもしれません。しかし、350年以上の伝統がある柿右衛門は、時代が変わっても変化しないものもあれば、時代とともに変わるものもあります。変わらないものは技術です。伝承された技術の上に、いまの人に受け入れられる作品を作っていくことが伝統だと思います。」
「私は時間があれば、野山の花や鳥をスケッチしています。絵付けのデザイン探しのためです。30枚、40枚とデッサンします。そのデッサンをもとに陶磁器に絵付けしていくわけです。常に時代の生活に合う作品を創作するよう努力してきたつもりです。親父が『伝統とはとどまるものではなく、流れるものだ』と言っていたのは、そのことを表現した言葉でした。」
「伝統とは、いまの地点にとどまることを意味しませんが、そのためにも技術の伝承は大事にすべきです。」
有田焼を代表する陶芸家で、“酒井田柿右衛門”の14代襲名者。本名:酒井田 柿右衛門、改名前-正。
絵付けの基礎となる部分を会得するため多摩美術大学日本画科で日本画を学び、卒業後帰郷して父親に弟子入りする。下積みを重ね父と祖父が蘇らせた“濁手”の技法なども学んでいく。
「14代目柿右衛門展」は国内だけでなく海外で高い評価を集めた。
2001年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定された。
エラ・フィッツジェラルドさんの残した言葉【Just One Of Those Things】1917年4月25日~1996年6月15日
「Just don’t give up trying to do what you really want to do. Where there is love and inspiration, I don’t think you can go wrong.」
(本当にやりたいことに挑戦するのをあきらめないで。愛とインスピレーションがあれば、うまくいかないことなんてないわ。)「It isn’t where you came from, it’s where you’re going that counts.」
(大事なのは今までのあなたじゃなく、これからのあなた。)「I stole everything I ever heard, but mostly I stole from the horns.」
(聞いたことすべてを盗んだけど、ほとんどが管楽器からね。)「The only thing better than singing is more singing.」
(歌うことより優れた唯一のものは、もっと歌うことよ。)アメリカ合衆国のジャズ・シンガー。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストの1人。
13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュからは大統領自由勲章を授与されるなど、レコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第25位。
源義経さんの残した言葉【牛若丸】1159年~1189年6月15日
「迅速こそ、勝利である」
「道なくば岩をよじ、山をつらぬいてゆくまでよ」
「必勝の戦法は敵を包囲するにあり、そのためにはいかに兵力僅少でも、二手に分けなければならぬ」
「勝つということは味方に勝つ事である。味方に勝つというのは我に勝つ事だ。我に勝つというのは、気をもって体に勝つ事である」
「人よりも百倍臆病であるとすれば、百倍勇気を奮い立たせればいいではないか」
「鹿も四足、馬も四足!」
「この崖は鹿が下ることもあるか?」
「この義経を見本とせよ!」
「御経もいま少しなり。読み果つるほどは、死したりとも、われを守護せよ」
「永(ながら)く恩顔を拝(はい)し奉(たてまつ)らず、骨肉同胞の儀すでに空(むな)しきに似たり、悲しきかな」
「軍はただ平攻に攻めて勝ちたるぞ心地はよき」
「おれの乗り様を手本にせよ」
「なぜ平家の姫君が源氏である私に好意を寄せるのか」
「後の世も また後の世も 廻り会へ 染む紫の 雲の上まで」
(辞世の句)平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經である。
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。
武蔵坊弁慶さんの残した言葉【忠臣】~1189年6月15日
「弁慶先立ち参らせ候 三途の川にて待ち参らせん」
「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」
(辞世の句)平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。
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