故人が残した名言集【6月20日】
瀬川昌治さんの残した言葉【映画監督】1925年10月26日~2016年6月20日
「創作意欲は衰えませんね。もし、衰えたらやめるつもりです。」
日本の映画監督、脚本家、舞台演出家。喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督した。
貴ノ浪さんの残した言葉【大関】1971年10月27日~2015年6月20日
「暑さは気合いで乗り切ります。夏は暑いのが当たり前です。」
青森県三沢市出身で二子山部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は浪岡貞博。現役時代の体格は身長196cm、体重175kg、血液型はO型、愛称は「貴にょ浪」。
角界では「浪大関」「浪関」と呼ばれていた。趣味は釣り。
ハーバート・スウォープさんの残した言葉【ジャーナリスト】1882年1月5日~1958年6月20日
「I can’t give you a sure-fire formula for success, but I can give you a formula for failure: try to please everybody all the time.」
(成功するための秘訣を教えることはできないが、失敗するための秘訣を教えることはできる。常に誰もを喜ばそうとすることである。)「Don't forget that the only two things people read in a story are the first and last sentences. Give them blood in the eye on the first one.」
(人が読むのは2行だけだということを忘れるな、最初と最後の文だ。最初の文に血肉を注げ。)米国の編集者、ジャーナリストであり、アルゴンキンラウンドテーブルに親しみを持っていました。スウォープは彼のキャリアのほとんどをニューヨークワールドで過ごしました。彼はピューリッツァー賞を受賞した最初で3回の受賞者でした。
土方歳三さんの残した言葉【新撰組副長】1835年5月31日~1869年6月20日
「一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私にとって何の意味もない。」
「将来われ武人となりて、名を天下に揚げん。」
「知れば迷ひ 知らねば迷はぬ 恋の道。」
「我この柵にありて、退く者を斬る!」
「梅の花 壱輪咲いても梅は梅。」
「男の一生は、美しさをつくるためのものだ。俺はそう信じている。」
「昨日の夕陽が、きょうも見られるという具合に、人の世はできないものらしい。」
「未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある。」
「よいか、人を斬る剣は所詮は度胸である。剣技はつまるところ、面の斬撃と、突き以外にない。習い覚えた区々たる剣技の末梢を忘れることだ。」
「皆、自分の道をゆこう。」
(新撰組の解散の時の言葉)「勝てるか勝てないか、やってみなければわからないよ。おらァもう、勝敗は考えない。ただ命のある限り戦う。どうやらおれのおもしろい生涯が、やっと幕をあけたようだ。」
「喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。死んだと思いこむことだ。そうすれば勝つ。」
「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。」
「あんた(近藤勇)は総師だ。生身の人間だと思っては困る。奢らず、乱れず、天下の武士の鑑であってもらいたい。」
「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」
(辞世の句)「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」
(辞世の句)「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」
(辞世の句)「世に生き飽きた者だけ、ついて来い。」
(最期の突撃の時の言葉)幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。
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