故人が残した名言集【7月21日】
山本寛斎さんの残した言葉【ファッションデザイナー】1944年2月8日~2020年7月21日
「私のやっていることは全部、人に楽しんでもらう、喜んでもらう。それが目標です。」
「子どもであろうとご老人であろうと、年齢と関係なく、楽しいことが好きだっていう、それが人間なんでしょう。」
「私は、自分のやっていることの本質は何と思ってるかといいますと、前例のないことをやって、人を猛烈に喜ばせる、その笑顔を見るのが私の最大の喜びになる。これです。」
「『好きなことしかやるな!』と言いたいです。『仕事と思うな!』ということですよ。」
「今はほとんどの若者が、大声を出すことも全力で走ることも知らずに生きています。社会や学校が『あれするな、これするな』と育てるから。」
「自分でもよく泣くと思いますねえ。ですから応援団気質というのは、あるかもしれないです。」
「最後まで諦めずに頑張る人を見ると、私は泣いちゃうんです。不屈の精神で、全身全霊を傾けて何かに挑む姿というのは、世界中が理解する感動じゃないかと思います。」
「『世のため、人のため』という純な気持ちが先にあって、かつ数字も付いてくる仕事は世の中にたくさんあるはずです。」
「世界に私と同じくらいのファッションの才能を持つデザイナーは何人もいるとして、自分でお金を集めてきてショウをやって、国の流れを変えちゃうイベントプロデューサーはいないんじゃないでしょうか。だから、これは貴重な活動だと思って、命ある限り続けるつもりです。」
「これまでいろんな国でSUPER SHOWを実現してきましたけれども、選ぶ基準は『よく知らない国』『これから仲良くなるべき国』です。」
「夜は9時に寝て、朝は5時に起きて、できるだけ深い呼吸をしながら公園を散歩して、脳に酸素を送り込んで、自分で朝食を作って食べるんです。これは今も続けています。この生活をしているとね、前の晩に辛い状況で気分が落ち込んでいても、前向きに考えられるようになるんです。」
「(インド人は)数字の0を発見した民族ですから、相当しぶとい。そんな人たちと渡り合うには、とにかく本音で、分かりやすく、ストレートに思いをぶつける。これが一番強いですよね。」
「日本人は『水に流す』とか『竹を割ったような性格』という諦めの美学がありますが、インドの人たちにしたらそんなの駄目オトコの考え方です。彼らは『水になんか流してどうすんだ。もっとしつこく粘れ!』っていう教育をされているんです。それが正しいオトコの生き方なんです。」
「私は社員にも『結論から先に言って』と言っています。前置きが長いと、余計な時間がかかるんです。」
「服とは、我ここにありという主張。」
「私は初期の頃は、街で着られる着られないとか、売れる売れないとか、まったく考えないで服を作っていました。」
「私は同じ生きていくならば、人を大いに愛して、興奮しまくって、何か新しいものを作り狂って、そんな生き方がいいんじゃないかと思っています。」
「人生1回。無理して嫌なことなんてやる必要はない。」
「やっぱりね、小さな世界でまとまっちゃダメなんですよ。」
「『我ここにあり』極論すればそれしかないと思う。まねをすると、即座にバッサリと切られてしまうから、世界の場では創造性を重視する傾向が強い。」
「行き来するものだと思うのですが、ファッションは西洋から日本へ流れていました。その流れの中を逆流したいという気持ちがありました。」
「じっとしていたり、黙っていたら始まらないわけでして、自分の考えなり、自分を表現すれば、相手をわかったというところで交流が始まります。」
「今まで、こうだったああだったというものが崩れていって、それが正しいという風に進んでいると思います。だから、あまり保守的な考え方になるのは、きわめて危険。」
「日本では『あの人変わってるわね。変じゃない?』と言われる事でも、海外では受ける。」
「日本では『以心伝心』という事が可能です。しかし価値観の違う国へ行くと、言うべきことをはっきり言わないと、伝わらない。無言のうちに了解済みなのに、という事は成立しません。」
「体験済みの未来なんか、ひとつもない。ダメかどうかは、やってみなきゃ分からない。」
「仮に二十世紀が『便利な時代』とか『デザインの時代』『テレビの時代』などと分析できるとすれば、二十一世紀は『人間讃歌』の時代ではないだろうか。」
「闘わずして結果を出せなかったのなら悔いが残る。しかし、真剣に闘って結果が『NO』ならばいいじゃないか。」
「極端かもしれないが、私は好きなことしかしない。」
「朝、出かけていくのが『しんどいな』と思うこともある。寒さの厳しい日は、このまま暖かい布団にくるまってもう一度寝てしまおうかという誘惑にかられることもある。そんな時はひとりのカッコイイ主人公に自分を置き換えるのが私の得意技。」
「パリの失敗以降、生活態度を一変させた。二日酔いの毎日をきっぱりやめて早寝早起きの毎日。」
「世の一流と呼ばれる人、成功した人々は、みんな『異常』という名の天才なのだと思う。」
「『最近の若い奴らは……』と嘆く大人もいるが、私はそんな言葉は使いたくない。彼らは彼らで、一生懸命何かを表現しようとしている。」
「親がこんなだと、子どもの方が『この親の言うとおりにして大丈夫だろうか?』と心配になるらしい。未來が書いた作文にはこうあった。『うちの父親は、普通の親とは逆のことを言います。言うとおりにしたら大変なことになるので、自分でコントロールしなければいけないと思いました』子どもというのは、なかなか賢いものである。」
「『服なんかなんでもいい』派は考え直して欲しい。装うことで自分を気遣う精神が大切なのだ。」
「名前も知らない、肩書きも年齢も知らない、国籍さえも分からない。けれど、パッと見た瞬間に何か『ただ者ではない』といったオーラを放つ人間……。そんな人間になりたいと思ったら、武器は着ているものしかない。」
「自己表現できるファッションとは自分がそれを着たとき、最高の笑顔でいられる服。」
「進め!進め!這い上がれ!我ながら思う。『しぶといな、寛斎ってヤツは』と。」
「私はそのファッションで、ロンドン、ニューヨークを歩き回った。日本では『あの人、へん』でも、世界の懐は広い。私の姿を見るなり『ウワァー、カッコイイ。ビューティフル!』と賞賛してくれる自由な感性は、海を渡った異国にあった。」
「私とて傷つかなかったわけではない。けれどこう考えることにした。見る人をギョッとさせたり、ギャーッと驚かせたということは、私の服が多くの人々のこれまでの常識や既成概念に『それでいいのか?』と疑問を投げかけたということだ。」
「毎朝山手線で原宿の自分のアトリエに通っていたが、私が経っているプラットホームに電車が入ってきて、ドアが開いた瞬間、気まずい空気が流れる。サラリーマンたちが、私の姿を見るなりギョッとするのである。その目は、あからさまに『なんだ、コイツは』と語っていた。」
「人生には振り幅があります。糸で結ばれた玉が左右に振れるように、あっちに振れたり、こっちに振れたりしている。いい時もあれば悪い時もある。しかし、右に振れた糸は必ず左に戻ってくる。けっして振り切れて飛んで行ってしまうことはない。それを信じて、絶対に糸から手を放してはいけない。」
「夢を叶えるコツは、狂ったように欲しがること。」
「人生はなんでもあり。そう考えれば楽になる。」
「自分自身が老いていくのも現実。妻が病にかかるのも現実。それを否定しても仕方がないし、逃れることもできない。すべての運命、すべての現実を受け入れること。そこから再び歩き出せばいい。」
「何より自分が面白いと思うことをやること。今いるところにそれがない、ほかにそれがありそうだな、と思えるなら、現状を変えたほうがいい。」
「30歳くらいで貯金をしている人がいますね。否定はしないけれど、そんな年齢でお金を貯めてもさほど貯まらないもの。私なら直接、自分に投資します。」
「重要なのが、体調をよくしておくことなんです。適度な運動、そして自然と触れ合うこと。仕事で悩み事があっても、これでパッと気持ちが切り替わる。」
「日本では『異常』というと、残念ながらマイナスのイメージのほうが強い。でもね、世界に出て行って評価された日本人って、みんな異常だと思うんですよ。」
「未来への一歩を踏み出すためには、まずは現実をしっかりと受け止めること。」
「どんなに苦しいことがあっても、必ずベターな道がある。ベストではないかもしれないけど、すべての道が閉ざされることはない。」
日本のファッションデザイナーのイベントプロデューサーである。寛斎スーパースタジオ会長。太田プロダクション所属。通名で、やまもと寛斎と表記することもある。 神奈川県横浜市生まれ。岐阜県立岐阜工業高等学校を経て、日本大学文理学部英文科中退。
1971年に、日本人として初めて、ロンドンでファッションショーを開催したことでも知られる。このロンドンのショーがデビューとなり、1974年にパリコレクション、1979年にはニューヨークコレクションに参加。フランス・パリ、イタリア・ミラノ、米国・ニューヨーク、スペイン・マドリードなど世界各地の主要都市に「ブティック寛斎」を出店しファッションデザイナーとしての地位を確立、ほかタレントや俳優としての活動や、観光立国懇談会(VISIT JAPAN)、2005年「日・EU市民交流年海外事業」など、各種日本政府諮問事業の委員なども務めている。
平尾昌晃さんの残した言葉【作曲家】1937年12月24日~2017年7月21日
「マージャン仲間が、いま、できたてほやほやのメロディを聞いたばかりなのに、すぐにみんなで口ずさんだ事実は馬鹿にできない。やはり、『歌』は、誰もが歌いたくなる歌でなければいけないのだ、と確信した。」
「あれこれやっているとボケている暇はない」
「いつまでも青春」
日本の作曲家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会理事。出生名は平尾勇。
幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、現在は芸名の通り平尾昌晃を本名としている。
E・L・ドクトロウさんの残した言葉【小説家】1931年1月6日~2015年7月21日
「Creativity is like driving a car at night. You never see further than your headlights,but you can make the whole trip that way.」
(創造力というのは、夜道をドライブするようなもの。車のヘッドライトが照らすところよりその先を、その時々には決して見られない。でも、進みつづければ、ドライブは無事に終わる。)アメリカの小説家である。『ダニエル書』(1970年)、『紐育万国博覧会』(1985年)、『ビリー・バスゲイト』(1989年)、『ニューヨーク市貯水場』(1994年)とコンスタントに作品を出し続けており、『ラグタイム』(Ragtime)など映画化された作品も多くある。
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