故人が残した名言集【7月6日】

ジェリー・ワイントローブさんの残した言葉【映画プロデューサー】1937年9月26日~2015年7月6日



「交渉は一歩も引くな。」



アメリカ合衆国の映画プロデューサー。 ニューヨーク・ブルックリン区出身。ユダヤ系アメリカ人。

ジョン・デンバーやフランク・シナトラ、ボブ・ディラン、ビーチ・ボーイズらの音楽プロモーターとして活躍した後、映画製作に進出した。
特に『ベスト・キッド』シリーズと『オーシャンズ11』とその続編で知られる。



金子勇さんの残した言葉【Winny開発者】1970年7月~2013年7月6日



「私にとっては『こんなことを考えたよ』という表現であり、そのための手法です。プログラミング以外の方法でしゃべるすべを知らないのです。」



ソフトウェア開発者、情報工学者。専門はオペレーティングシステム、シミュレーション環境。東京大学大学院情報理工学系研究科特任助手を経て、東京大学情報基盤センタースーパーコンピューティング研究部門特任講師を務めた。

Peer to Peer通信を利用したファイル共有ソフト"Winny"の開発者として47氏という渾名でも呼ばれていた。



山口仙ニさんの残した言葉【長崎原爆の被爆者】1930年10月3日~2013年7月6日



「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。」



長崎原爆の被爆者、日本の反核平和運動家。

1930年、長崎市に生まれる。1945年8月9日、長崎県立長崎工業学校1年時の14歳の時に、学徒動員で通っていた三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.4kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に被爆、顔と全身に大火傷を負った。

大村海軍病院に搬送され、1946年3月9日に退院した。

退院後も顔から胸に残ったケロイド痕に悩まされた。1951年に同校機械科を卒業したが、就職時には学徒動員先だった三菱造船をはじめ多くの企業で体格検査に不合格となった。

そのため五島の父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活した。

1953年には土地を売って長崎市に戻り、1957年まで饅頭屋を営んでいた。



ルイ・アームストロングさんの残した言葉【ジャズミュージシャン】1901年8月4日~1971年7月6日



「The one we’re playing is a life.」

(僕たちの演奏しているものは人生だ。)



「If I need the explanation about my performance, it shouldn’t be played.」

(自分の演奏について説明が要るようなら、演奏などするべきではない。)



「You aren’t supposed to give up on the way. Because the lost one becomes much a lot more than something to get if it’s given up on the way.」

(途中であきらめちゃいけない。途中であきらめてしまったら、得るものより失うもののほうがずっと多くなってしまうから。)



「If Jesus Christ marches at a black surface, they’ll beat as expected.」

(もしもイエス・キリストが黒い肌で行進をなされば、やはり彼らは殴打するのだろうな。)



「While going to the destination, don’t give up. No one picks it up.」

(目的地に向かう途中であきらめるな。誰も拾ってくれはしないぞ。)



アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャン。

サッチモ という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。

サッチモという愛称は「satchel mouth」というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」から来たとする説などがある。

その他、ポップス、ディッパー・マウスという愛称もある。

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