故人が残した名言集【8月14日】
板井圭介さんの残した言葉【八百長告発の元小結】1956年3月21日~2018年8月14日
「いま、ガチンコでぶつかり合って一番強いのは間違いなく稀勢の里。昇進で自信をつけ、さらに強くなるはずです。かつての師匠であるガチンコ横綱・隆の里が千代の富士の天敵として綱を張ったような力強い相撲が見られるでしょう」
大分県臼杵市出身で、かつて大鳴戸部屋に所属していた元大相撲力士。最高位は西小結。現役時代の体格は178cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き。
豊田泰光さんの残した言葉【プロ野球選手】1935年2月12日~2016年8月14日
「五輪を通してしか価値を見いだしていないのはスポーツ文化の貧しさです」
「チームの置かれた状況や、そのピッチャーの将来を考えたとき、140(球)でも150でも投げるべき場面が必ずあると思うんです。そういう『ここ一番の勝負どころ』は、一生に何べんも来るわけじゃない。だから、指揮官はそのとき『今日はお前一人でがんばれ』と言わなきゃいけません。」
「無難な判断に流れる傾向は、職場の中だけでなく、組織全体に広がっているような気がします。この不況下で大企業は次々とスポーツから撤退していきました。聖域なきリストラの観点からすると正しいのかもしれない。でも、同じリストラが必要になった企業でも、日産自動車は野球部を潰しませんでした。ゴーン社長が試合を応援する社員の姿に感激し、存続を決めたからです。日本人の経営者より外国人の方が、我々の胸にぐっとくる心意気を持ち合わせているということになるのでしょうか。」
「当時(三原脩監督時代)の西鉄はレギュラー陣が協力で、二軍の選手が入り込める余地はほとんどありませんでした。しかし、若い選手も腐ることなく練習していました。絶妙な人の使い方で、それほど組織を活性化させたことが三原さんの隠れた功績だったと思います。」
「私が仕えた指揮官では、やはり三原(脩)さんはすごい人でした。三原マジックと称された戦術はもちろん、人心掌握術も一流だったんです。私が一番感心したのは、二軍から上がってきた選手をすぐに公式戦で使う点です。私と一緒にプレーした選手に三宅(孝夫)というのがいるんですが、ある年、土壇場のチャンスで凡退して二軍行きを志願したんです。そしたら、次に戻ってきたとき、三原さんはこの男をまったく同じ場面で、いきなり代打に起用した。結果はダメでしたけど、本人は納得し、ベンチの我々はそれ以上に感動しました。」
「いまどき部下を誘って飲みに繰り出す上司は、『時代遅れのオヤジ』と言われるのかもしれませんが、とにかく日ごろの付き合いを密にして情報を頭に入れておかないと、本当の勝負どころは見極められません。」
「最近、人に賭ける心意気みたいなものを感じる機会が減りました。働く方も、働かせる方もどこかマニュアル的で、ある一線を踏み越えようとしませんよね。そうなった原因の多くは、人間関係の希薄化にあると思います。思い切って部下に仕事を託すといっても、その部下のことを上司が良く理解していなければ、無理難題を押し付けるだけになりかねない。」
「日本人が変にアメリカナイズされちゃいけない。組織のリーダーは特に、スマートさの一方で、人を熱くさせる心意気を大切にすべきです。」
茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手、野球解説者。
現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ黄金時代の主力選手の1人として活躍した。
引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、スポーツニッポンの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。
山口冨士夫さんの残した言葉【村八分】1949年8月10日~2013年8月14日
「音楽なんかやってない、ロックをやってるということを分かっていただきたい」
日本のロックミュージシャン。
1970年代初頭、京都に移住し、盟友・チャー坊(柴田和志)と共に伝説のバンド村八分を結成。
日本のロックバンドのパイオニアとして独自なスタイルを築く。 過激な歌詞、客に媚びないステージは後のパンク・ロックにも通じた。
山口小夜子さんの残した言葉【東洋の神秘】1949年9月19日~2007年8月14日
「心が体を着ているなあと思うの。」
「意図を排除して自分を無にすることから、本質に触れる」
日本のファッションモデル、ファッションデザイナー。杉野ドレスメーカー女学院卒業。
パリコレクションに出演するなど世界的に活躍し、日本人女性モデルの草分け的存在になった。
活動はモデルだけに留まらず女優、パフォーマー、ファッションデザイナー、と多岐にわたる。
また晩年は、その活動を自ら「ウェアリスト」と説明していた。
琴桜さんの残した最後の言葉【猛牛】1940年11月26日~2007年8月14日
「土俵に戻って欲しい」
(朝青龍へ)(最後の言葉)
鳥取県東伯郡倉吉町出身の元大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄。
1973年1月場所も14勝1敗で連覇を果たし、場所後に第53代横綱へ昇進した。
横綱昇進時の年齢(32歳2ヶ月)は現在の横綱審議委員会の「2場所連続優勝を原則とする」の規定が定められた年6場所制における最高齢で、「遅咲きの桜、ようやく満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれた。
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