故人が残した名言集【8月4日】
津川雅彦さんの残した言葉【俳優】1940年1月2日~2018年8月4日
「職業というのは、我慢とか忍耐とか苦労とか、そういうものを乗り越えない限り、プロの業とはいえない。」
「工夫を重ねるってことは、実は余計なところを削ってシンプルにしていく作業なんだ。」
「役者もスポーツ選手も素晴らしい結果を出す優秀な職人は、性格的には偏屈で毒舌を吐く癖のある変人が多い。 だからこそ、凄い結果を残しても来たのだ。」
「軽く見せるとリアリティーも出るし、粋になるんです。軽さこそ至芸。芸の最初は重心が肩にくる。次に腹に落ちてやっと1年生、腰に落ちてようやくプロ、それがマリオネットのように頭上に来て、至芸の域に達するわけです。そういう軽い芝居をするため、僕はセリフを覚えるのに2週間かけます。1日目に何回か繰り返して覚え、翌日忘れてまた覚える。それを繰り返すうちに、セリフが毎日、ポト、ポトッと臓腑(ぞうふ/内臓のこと)に落ちていくんです。僕の場合は2週間でちょうど記憶力と滑舌が、セリフから解放され自由に芝居が出来るようになる。そうするとセリフにスピード感も出て来て軽さが出る。歌舞伎でも落語でもうまい人は、力を抜くほど迫力が出るんだと知ってますよ。」
「後ろを見たら断崖絶壁というのが、一番奮い立ちますからね。」
「人は気の持ち方次第で、どんなつらい経験をしても、絶対にそれをプラスに変えることができるって、信じています。」
日本の俳優、映画監督、芸能プロモーター、評論家。京都府京都市中京区出身。別名義であるマキノ 雅彦は映画監督をする際に名乗っている。
芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。 本名は加藤 雅彦。
天野尚さんの残した言葉【アクアデザインアマノ創業者】1954年7月18日~2015年8月4日
「小さな生命を愛せずして、大自然を語ることは出来ない」
日本の写真家、実業家、元競輪選手。新潟県西蒲原郡巻町出身。アクアデザインアマノの創業者で、ネイチャーアクアリウムを提唱した。
また写真家としては、アマゾン、ボルネオなどの熱帯雨林の撮影に力を注いでいた。
豊富な自然体験をもとにした講演活動を、日本国内はもとより、ドイツ、イタリア、ポルトガル、ポーランド、ロシア、アメリカなど世界各国で精力的に行い、2009年5月に世界環境写真家協会を設立し、写真家としても地球環境を守るための植樹の重要性を訴えている。
松田直樹さんの残した言葉【サッカー選手】1977年3月14日~2011年8月4日
「マジで、もっとサッカーやりたいです。」
「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生きてこられた。」
「本当は冷静なのに相手との駆け引きで熱く見せたりすることもある」
「イエローカードも一つの勲章だと思っていた。」
「あいつらはプロじゃない。必死に戦ってくれているサポーターの気持ちが分からないのかな」
「やるよ、やっちゃうよ」
群馬県桐生市出身のサッカー選手。元日本代表。ポジションはディフェンダー。 2002 FIFAワールドカップに出場。
日韓W杯と前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。
渥美清さんの残した遺言【寅さん】1928年3月10日~1996年8月4日
「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」
(遺言)日本のコメディアン、俳優。本名、田所 康雄。
愛称は、寅さん、風天(俳号)。代表作『男はつらいよ』シリーズで下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。
没後に国民栄誉賞を受賞。
松本清張さんの残した遺書【小説家】1909年12月21日~1992年8月4日
「自分は努力だけはして来た」
(遺書)日本の小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。
1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。
以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。
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