故人が残した名言集【9月22日】

岸朝子さんの残した言葉【食生活ジャーナリスト】1923年11月22日~2015年9月22日



「命は食にあり。」



「辛いことも数多くありました。そんな時いつも私を励ましてくれたのが、『嫌なことは夜、布団の中で考えないこと。太陽の下で考えれば何事も明るくなる』という(香川)綾先生の言葉でした。」



「もちろん先天性の糖尿病もありますが、それにしても糖尿病が低年齢化しているのは、やはり食習慣が影響しているのは否定できないでしょう。」



「以前、新聞のコラムにサッカーのトルシエ元日本代表監督が『日本人選手の体力のなさは、コンビニ弁当に由来している』といったことを書かれていて、それだけにちゃんと警告を発する人がいるのはうれしいですね。」



「PTAに呼ばれて講演することもありますが、私が言っているのは、『一品でもいいから手作りのものを食べさせてください』ということです。」



「高校生のみなさんも『あれがいい。これがいい』じゃなく、まず出てきたものを食べてみる。おいしかったら実際につくってみる。つくると楽しいものです。」



「イライラしていると、心だけを問題にしがちです。でも、そういうときにご飯をきちんと食べてほしいです。」



「お酒を飲み始めたのは、主婦の友社にいた頃からです。おじさんたちに負けてはいられないと頑張って、お酒の席では一升瓶の半分ぐらい飲んでいました」



「それまでは料理人は軽く見られていましたけど、『料理の鉄人』のおかげで、料理人の志望者が増えたそうです。」



「栄養学というのは、病人食とか病態栄養とか、妊産婦の栄養とか、要するに科学的なこと、いかに食べ物が体に大事かということを学ぶわけですが、あくまでも実践あっての学問なんですね。」



「動物性のたんぱく質源を摂り過ぎるとイラつくのよ。」



「食卓っていうのは、会話も大事だし、『同じ釜の飯を食う』という言葉が昔からあるけれど、そういうことで人と人とは通じ合うものだと思うの。」



「料理を作れない栄養士、多いですよ。カロリー計算ばっかりしてて、でもそれはつじつま合わせだから、すごくまずい献立だったりするの。」



「何を食べてもよいのです。ただ、食べ過ぎず、体に必要なものをきちんととることが大切です。」



「たばこも好きですが周りがうるそうございますので……コーヒーを飲む時に一服するくらいで、なかなか吸わせてもらえません。」



「『食は生命』という言葉は、もう私にとってはおまじないのようなものです。生命なのですから、何でも感謝して頂かなくちゃね。」



日本の料理記者、食生活ジャーナリスト。旧姓は宮城。
1993年から6年間、フジテレビ系列の人気番組『料理の鉄人』に審査員としてレギュラー出演。「料理記者歴40年」が肩書きだった。試食の際の「おいしゅうございます」という表現がブームとなる。

同じく『料理の鉄人』でレギュラー審査員を務めた食物史家の平野雅章とは、主婦の友社時代の同僚である。



ヨギ・ベラさんの残した言葉【ヤンキース伝説の名選手】1925年5月12日~2015年9月22日



「I didn’t say everything I said.」

(言った事の全部を言ったわけじゃない)



「It’s tough to make predictions, especially about the future.」

(予測をするのは難しい。未来についてはなおさらだ)



「I knew I was going to take the wrong train, so I left early.」

(電車を乗り間違えるってわかってたんだ。だから早く家を出たんだ)



「You better cut the pizza in four pieces because I’m not hungry enough to eat six.」

(ピザは4つに切ってくれ。6切れは食べられないから)



「I usually take a 2-hour nap, from 1 o’clock to 4.」

(普通、1時から4時までの2時間、昼寝するんだ)



「How can you say this and that when this and that hasn’t happened yet.」

(まだあんなことやこんなことが起こってもないのに、あんなことやこんなことがいえるわけないだろう!)



「Think? How the hell are you gonna think and hit at the same time?」

(考えろ?考えながら打つなんて同時にできやしない)



「It’s like déjà vu all over again.」

(これはまるでデジャブの繰り返しだ)



「Slump? I ain’t in no slump! I just ain’t hitting.」

(スランプ?そうじゃない。当たってないだけだ)



「This is the earliest I’ve ever been late.」

(今まで遅れた中では一番早かったよ)



「Baseball is 90 % mental, the other half is physical.」

(野球は90%精神、残り半分は体力だ!)



「I’m wearing these gloves for my hands.」
(グローブは手の為につけてるんだ)



「His reputation preceded him before he got here.」

(彼の前評判はここに来る前に聞いてたんだ)



「A nickel ain’t worth a dime anymore.」

(今じゃ5セントは10セントの価値もないんだ)



「It ain’t over till it’s over.」

(全て終わるまで、結果はわからない)



MLBのプロ野球選手。引退後は監督を務めた。アメリカ合衆国・ミズーリ州セントルイス出身。

背番号8は、ビル・ディッキーと共に永久欠番。



淡谷のり子さんの残した言葉【ブルースの女王】1907年8月12日~1999年9月22日



「ブルースの女王?それ、安っぽくてイヤな言葉。ねぇ、『のりちゃん』と呼んで。ジャズもシャンソンも好きだし、クラシックだってもう一度勉強し直したいな、って思ってるのよ。」 



「自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。」



「 レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ」



「ブルースというものは、だれかが書いて、だれかが曲をつけて歌うもんじゃないの。黒人たちが自分の思いを自分の言葉で、自分のメロディーで叫んだ歌、それがブルースよ」



「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ。」



「ヘアヌードなんて、ただべローンと裸になるだけ。心の中に何か持ってないと。」



「あまりヨレヨレになって生きているっていうのは…。でも、そうかといって、じゃ華々しいうちにステージをやめればいいじゃないかって言われるけど、そんなものじゃないんですよ。最後まで見きわめたいでしょう。」



「レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ。」



「歌屋は歌だけをちゃんとやればいいのよ。」 



「歌手は自分が酔うのではなく、聞き手を酔わせるもの。」



「今の若い歌手のひどいこと。のど自慢で『かね1つ』といったようなものが、恥も外聞もなく盛んに歌っている。テレビのスイッチを思わず切りたくなるような歌手が多いんで、嫌になっちゃいますよ。」



「誰が歌ったんだっけ?『着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます。』着てはもらえないとわかっているのなら、編むことないわよ。自分の中に光を持っているのに、『私はダメかもしれない』ってね。それはせっかく懐中電灯を持ちながら、眼をつぶって歩くようなものです。尊いものを持っているのに、その有り難さに気付かない。贅沢ですよ。」



「せっかく兵隊さんたちが夢を求めているのに、きたならしいもんぺをはいて、化粧もしないで『別れのブルース』歌えますか。そういったら、『歌は歌、服装は服装じゃないか』っていうのね。服装が歌につながってるってことがわからないのよ。それでまた始末書。化粧しちゃいけない、なんていったって、私の顔、化粧しなきゃ見られないですよ(笑」



「自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。」



「舞台に上がるときはドレスもさることながら、最高にゴージャスなパンティをつけて、天下の美女って気持ちで歌うのよ。」



「勉強するしか道は無い、苦しみ悩み努力が無い歌はインチキだ。」



「奥さん。ダンナはおだてて使いなさい。」



「ドレスは私の戦闘服よ!」



「歌手は舞台で泣くものではありません。ただそういう私も一回だけ泣いたことがあります。戦争中に兵隊さんを慰問した時、楽屋に十人くらいの若い兵隊さんがやって来て、私たちは特攻隊員だから、いつ席を立つかわからない、その時は歌の途中で出て行くこともある、その無礼を前もっておわびに来た、というんです。で、私が舞台で一番を歌い終わると同時に、その十人くらいの兵隊さんがいっせいに立ち上がり、私に向かって敬礼をして出て行ったのです。ああッ出撃命令が出たのだ、もうあの人たちは帰って来ないかと思うと涙が次から次へと出てきて、とうとう歌えなくなりました。その一回だけです。」



「美空ひばりさんの真似だったり、私の真似だったりしたら、それは物真似で、歌ではありません。自分の歌を大切にして、自分でなくては歌えないような歌が、たとえ下手のように聞こえても、ほんとうの歌です。嫌いなことはくたびれるが、好きなことをするのはくたびれない。」



「工夫をこらした仮病ほど、なぜかすぐばれる。」



「つきつめれば、すべてが歌。」



青森県青森市出身の女性歌手。 本名:淡谷 のり。

日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も出した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた。

叔父は元社会党の代議士・淡谷悠蔵。身長150.3cm。

1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。

1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。

日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。
その後も数々の曲を世に送り出し名をとどろかせる。



横井庄一さんの残した言葉【大日本帝国の陸軍軍人】1915年3月31日~1997年9月22日



「恥ずかしいけれど、帰って参りました」



日本の陸軍軍人、評論家。最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。

太平洋戦争終結から28年目、アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。

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