故人が残した名言集【9月25日】

アーノルド・パーマーさんの残した言葉【マスターズ50年連続出場】1929年9月10日~2016年9月25日



「成功への道は、いつも工事中。」



「自信ある自己流は、自信なき正統派に勝る。」



「フォロースルー自体はボールの飛行となんら関係ない。ボールを打つ運動のすべては、クラブ・ヘッドがボールを打つ前につくられるものだからだ。」



「パッティングは知恵のようなものだ。一部は生まれつきの才能で、一部は経験の集積だ。」 



「集中力は、自信と飢えの結合から生じる。」 



「私は挑戦から逃げるという事ができなかった。どんなに厳しそうに見えても、勝てる見込みが少しでもあれば、それを奪い取ろうと頑張った。私は冒険の危ない部分よりも“甘美”な部分の味を覚えたんだ。勝つことに貪欲でなければいけないよ。」



「勝つのは、たいがい、勝てると思っている人間だ。」



「勝算が全くない時でも、私はいつも最善の努力をしてきた。私は、決して挑戦を止めない。私は決して、自分に勝つ機会がないとは考えなかった。」



アメリカ・ペンシルベニア州ラトローブ出身のプロゴルファー。 パーマーの名前に由来するファッションブランド「アーノルド・パーマー」を指すこともある。ウェイクフォレスト大学を中退。

PGAツアー通算62勝は歴代5位であった。
テレビ時代の最初のスターゴルファーになり、競技スポーツとしてのゴルフを多くの人々に知らせた。

熱心なファンが非常に多く、パーマーのファンの集団を指して“Arnie's Army”(アーニーズ・アーミー)と呼ばれるほどであった。



ホセ・フェルナンデスさんの残した言葉【マーリンズ不動のエース】1992年7月31日~2016年9月25日



「生まれながらにして自由だったあなた達には、自由が本当に意味することが何かは分からない。」



キューバ・ビジャ・クララ州サンタ・クララ出身のプロ野球選手。右投右打。背番号は『16』。

MLB・マイアミ・マーリンズでプレーした。
キューバのサンタ・クララで生まれ育った。アレドミス・ディアスと同じ少年野球チームに所属し、メジャーリーグの選手になる夢を持つ。

アメリカ合衆国への亡命に2005年から3度失敗。刑務所に服役した。

2008年に母親、妹と共にボートでキューバから4度目の逃亡を試みた。しかし途中、荒波に母親がさらわれて海に落ち、当時15歳のフェルナンデスは海に飛び込み母親を救出した。

その後、メキシコを経由してアメリカ合衆国に亡命を果たす。

フロリダ州タンパにあるブラウリオ・アロンソ高等学校に入学し、3度のノーヒットノーランを記録した。

2011年のMLBドラフト1巡目(全体14位)でフロリダ・マーリンズから指名され、プロ入り。順調にマイナーリーグを駆け上がる。

2012年にはオールスター・フューチャーズゲームにも出場した。

ベースボール・アメリカ誌の有望株ランキング2013年版では、メジャー全体で5位にランクされた。
2013年、前年の終盤ではA+級ジュピター・ハンマーヘッズで出場していたが、飛び級でメジャーリーグに昇格。

4月7日のニューヨーク・メッツ戦で先発でメジャーデビューを果たし、5回を1四球、8奪三振、1失点で勝敗はつかなかった。

5月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で7回を1四球、9奪三振、無失点でメジャー初勝利を記録した。

同年7月16日、MLBオールスターゲームにも選ばれ、ナショナル・リーグの5番手として登板。ダスティン・ペドロイアを見逃し三振、昨年の三冠王ミゲル・カブレラを内野フライ、オールスター時ホームラン数トップのクリス・デービスを空振り三振に切り、1イニングを無失点に抑えた。

同年シーズンは防御率2.19・12勝・WHIP0.98を記録し、11月11日に、ナショナルリーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。ナショナルリーグのサイ・ヤング賞の投票ではクレイトン・カーショウ、アダム・ウェインライトに次ぐ3位になった。



土井正三さんの残した言葉【奇跡の走塁】1942年6月28日~2009年9月25日



「100人いれば99人にとっては通用するが、残りの1人には通用しない。」



プロ野球選手・監督、野球解説者。兵庫県出身。

土井が名声を挙げたのは、1969年の阪急との日本シリーズでの本塁突入の走塁である。10月30日の第4戦(後楽園)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。

阪急の捕手・岡村浩二から二塁手・山口富士雄を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審の岡田功はセーフの判定を下した。

この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。

試合後、川上哲治監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。

その翌10月31日に岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した写真が、各新聞の第一面に掲載された。

このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。

同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。



夢路いとし さんの残した言葉【いとし・こいし】1925年3月27日~2003年9月25日



「二番手三番手のつもりでやってきたのが長くやれたコツ」



実弟である相方・喜味こいしとのしゃべくり漫才コンビ夢路いとし・喜味こいしで上方演芸界にその名を知られる漫才師である。本名、篠原 博信。



浪越徳次郎さんの残した言葉【ジェット浪越】1905年11月15日~2000年9月25日



「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」



香川県仲多度郡多度津町出身。指圧療法創始者。日本指圧協会元会長。

マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃けいれんで体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。

このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。

他にも、モハメド・アリや吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。

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