石原裕次郎さんの残した言葉【俳優】1934年12月28日~1987年7月17日

「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」


「僕らがちっちゃい時は、家族4人で風呂に入っていた。『お母さんもおいで』なんて、親父が呼んでさ。お袋が途中から入ってくるんだ。だから、いま当時を振り返ると、すごく微笑ましくてね。『よかったな』というイメージしか残っていないんだ。」


「人が何と言おうが、自分じゃ不良とは思っていなかったね。友達が何人か集まってワーワーやるのが楽しい訳で、自分じゃ、健康的で、模範的な学生だと思っていた。」


「兄貴は、僕の尊敬する人物の一人だ。小さい時から、そうだった。遊びのことでも、スポーツのことでも、試験勉強のやり方でも、兄貴の言う通りやれば、まず間違いないと思っていた。こうなると、もう一種の信仰だね。だから、あいつの言うことはよく訊いた。いまでもそうだ。」


「デビューしたころは、ロケに行って、『おい、裕次郎、こっち向け』なんて、行儀の悪い見物人から言われると、頭にきて、よくブン殴ったものだ。-略-もし『石原裕次郎』が芸名であったら、多分腹は立たなかったろうと思う。本名だから、呼び捨てにされると頭に来る。僕を呼び捨てに出来るのは、その頃既に親父は亡くなっていたから、この世の中で、お袋と兄貴の二人しかいないわけだ。たとえ時の総理でも、俺を呼び捨てにしたら許さない。当時の僕は、そのぐらいの気構えがあった。」


「僕はまだ若くて単純かもしれないけどね。自分で納得のいかないことはしたくないよ。」


「僕達が子供の頃は、無形のものから有形のものをどんどん生んでいった。物が無いんだから、工夫するしかないわけ。ところが、いまの世の中は、お金さえ出せば何でも手に入る。だから今のガキは工夫をしないよね。知恵を絞ることをしない。身体も軟弱で、鉄棒して落っこちれば腕を折っちまう。創造性もなけりゃ、体力もない。昔のガキは、いかに廃物利用して物を作っていくかという、発想と知恵においては、今の大学生や大人達より、はるかに進んでいたと思う。」


「動物には、動物の距離感があるように、人間同士がうまくやっていける距離感を、僕ら団塊の世代は、すし詰め教室で学びました。」


「俺はもう、美しい唇から出る言葉も、真珠のような涙も信じないようにしてきた。」


「お前さんのこと、弟みたいに好きだった…。」


「ここは戦場だ!愛だの許すだの。そんなことより生きることが先だ!」


「あんたと俺の間には、目に見えない海があるんだ。どうにもならない海が…。」


「大きい枝に、小さく咲く花が好きだ。たとえば、桜。パッと咲いて、パッと散る。武士のように爽やかで、散りながら花びらが舞う姿は、まさに花吹雪と呼ぶにふさわしい美しさがある。」


「人間は自分がどうなるかって事さえ、その時になってみるまでわからんもんです。」


「人の悪口は絶対口にするな。人にしてあげたことは、すぐ忘れろ。人にしてもらったことは、絶対忘れるな。」


昭和時代を代表する俳優、歌手であり、司会者やモデルなどのマルチタレント、また、実業家・ヨットマンとしても活動していた。身長178cm。血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー。石原プロモーション元代表取締役社長兼会長。 兄は政治家で小説家の石原慎太郎。

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