鎌田実さんの残した言葉【バックハンドトスの名手】1939年3月8日~2019年8月1日

「われわれのころは、試合前のシートノックでファンをうならせていたもんや」


「野球好きは、みんな友達だ」


兵庫県三原郡広田村出身の、日本の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家。
洲本高校では同期のエース蔦行雄を擁し、遊撃手、四番打者として活躍。1955年秋季近畿大会県予選準決勝に進むが、渡海昇二らのいた芦屋高に9回サヨナラ負け。1956年の夏の甲子園県予選では決勝に進出するが、県尼崎高の今津光男の好投に抑えられ、またも9回サヨナラ負け。甲子園出場はならなかった。
卒業後は慶應義塾大学への進学を希望していたが、1957年に大阪タイガースへ入団[1]。当初は中日ドラゴンズに入団する予定だったが、鎌田を担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇されてタイガースに移籍したことにより、「何だかよくわからないうちに」タイガースに入団することとなった。
タイガースには「空前絶後の遊撃手」とまで言われた吉田義男がいたが、1957年シーズン終盤に吉田が故障、28試合に先発出場を果たす。翌1958年6月から二塁手に転向。1959年に白坂長栄の後を引き継いで定位置を獲得すると、1960年には初の規定打席(13位、打率.265)に到達する。主に二番打者として起用され、1962年のリーグ優勝に貢献。しかし、日本シリーズでは31打数4安打と真価を発揮できなかった。1964年には移籍入団の本屋敷錦吾にポジションを譲るが、その後も準レギュラーとして活躍。1966年には定位置を奪還する。1967年に近鉄バファローズへ移籍。ここでも3年間、レギュラー二塁手としてチャンスメーカーをつとめた。1970年に阪神へ復帰。同年は二塁手、遊撃手として起用され36試合に先発出場、打率.290を記録した。1971年からは選手兼任コーチとなったが、1972年限りで現役引退。
引退後は西宮市苦楽園口駅前でスポーツ用品店を経営する傍ら、サンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家(1978年 - 1992年)を務めた。その後は近鉄で二軍総合アドバイザー(1993年)・一軍総合アドバイザー(1994年)を務めた。退団後は再びサンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家を務めた後、2002年からは淡路島で少年野球教室「KBクラブ」を結成。2009年より神戸市で「KBAカマタベースボールアカデミー」を結成し、同年2月1日より阪神大学野球連盟の神戸大学海事科学部野球部監督に就任。その傍らで芦屋市立山手中学校野球部の外部コーチとしても活躍。

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