ジャニス・ジョプリンさんの残した言葉【27クラブ】1943年1月19日~1970年10月4日

「あなたはあなたが妥協したものになる。」


「自分で自分が信じられなくなるようなことをしちゃだめ。あなたのすることがすべてあなたそのものなのよ。」


アメリカ合衆国テキサス州ポートアーサー出身の女性ロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。また、死してなおロックの歴史を代表する女性シンガーとして、今日に至るまで人気を博している。

父のセスはテキサコに勤める労働者で、両親と本人、マイケルとローラの2人の弟妹を含む5人家族であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。

大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。ヘロインや覚せい剤の他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォート」であった。

当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の妹、ローラが著わした手記『Love, Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。

一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表した。このバンドは演奏能力が不足していることでも知られ、売れ行きは不調だった。

しかしジャニスは、モントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが“Wow, that's really heavy”と呟く姿が撮影されている。1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーした「サマータイム」や、前述の「ボール・アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。

ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成だ。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年1月発表のアルバム『パール』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」がビルボードのチャート1位を記録。ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「ベンツが欲しい」もヒットした。

彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラにおさめられている。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。

1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた列車に乗って、カナダ・ツアーを行った。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。

1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルス、ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、105号室、ベッド横の床に倒れ死亡しているのが発見された。そのかたわらには4ドル50セントと、封の切られていないマールボロ (たばこ)が一箱残されていた。発見者はフル・ティルト・ブーギー・バンドのロードマネージャー、ジョン・クックであった。27歳没。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。録音中だったアルバムの収録曲のうち、「ベンツが欲しい」はアカペラの仮録音、そして「生きながらブルースに葬られ」は本人の歌が録音出来ないまま演奏だけが収録されている。遺体は火葬され、その遺灰は事件9日後の10月13日カリフォルニア州、マリン郡スティンソン海岸沖の上空から太平洋へと散骨された。

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