本多静六さんの残した言葉【公園の父】1866年8月11日~1952年1月29日

「世の中には濡れ手で粟を掴むような旨いことが、そうザラにあるわけのものではない。手っ取り早く成功せんとする人は、手っとり早く失敗する人である。秦の成功には速成もなければ、裏道もない。あせらず怠らず、長い道を辛抱強く進んでいくよりほかはない。」


「愚鈍な生まれつきでも、努力次第で何事にも成功する。」


「私が平凡愚劣の生まれつきをもって、しかも、なおかつ割合に幸福感謝の長い人生を享楽し得たのもひとえにこれ、早くから自らの『人生計画』を立てて、実行に努力してきたおかげである。」


「人並み外れた大財産や名誉は、幸福そのものではない。身のため子孫のため、有害無益である。」


「人間は活動するところ、そこに必ず新しい希望が生まれてくる。希望こそは、人生の生命であり、それを失わぬ間は、人間はムダには老いない。」


「よき人生は、よき人生計画に始まる。」


「満40才までの15年間は、馬鹿と笑われようが、ケチと罵られようが、一途に奮闘努力、勤倹貯蓄、もって一身一家の独立安定の基礎を築くこと。」


「人生は生ある限り、これすべて、向上への過程でなくてはならない。社会奉仕への努力でなくてはならない。もし老人のゆえをもって、安穏怠惰な生活を送ろうとするならば、それは取りも直さず人生の退歩を意味する。」


「人は気の持ち方一つで、陽気にも陰気にもなり、愉快にも悲しくもなるものである。」


「人が職業を選ぶには、よく自分の体質や性格を考え、師父先輩の意見を尊重堪酌して選ぶべきであるが一度これを決した上は、もはや迷わず、疑わず、専心その業に勉励することである。」


「人の長所を用いれば、世に捨てるべき人物なく、人の短所を責め、完璧を求めれば、天下に用いるべき人物はいなくなる。」


「真の成功には速成というものはない。ただ除々に確実に急がず休まずに進む以外に名案良策はないのである。」


「もし止むを得ず、他人の説や他人の仕事を批評する場合には、必ずその改良案を添えることである。単に人の説を攻撃し、破壊するだけでは、何ら世のためにならないばかりでなく、かえって恨みを買って敵をつくることにより、成功する上で大損である。」


「いかに有為有能な人材でも、一つの仕事に打ち込んで、それを大成せぬ間に他の仕事に眼を移したり、中途で放り出したまま、他へ転ずるというようなことでは精力の分散となって、自然無駄も多く、ついにその初めの一事さえ、成功しがたいことになるのである。これに反して、いかに微力不才と思う人であってもその全力を一つの目的に集中すれば、必ずある程度の成果が勝ち得られる。したがって、何人も一点に集中、一事に沈潜し、専心その業を励むにおいては、成功うたがいない。」


「善を称し、悪を問わないこと。」


「最も適当な速度は、それがいかにのろくともまず息切れしない程度を終始その標準とすべきもので急げば急ぐだけ、先へ行って休む時間も多くなる。あまりにも度々休むことになれば、速歩も漫歩に後れるばかりでなく、疲労のくることも早く、かつ大きい。登山も人生も同じで、牛の歩みよりおそくとも倦まず、たゆまざることを、第一の心掛けとしなければならぬ。そこに山登りの秘訣があり、人生行路の妙法がある。」


「事いまだ成らざるは、時節いまだ来らざることを信じて、さらにいっそうの努力を続け、その時節の到来を待つべきである。」


「銀はどうせ銀、銀なりに暮らせばいいのであるが、さらに人生をより安全にし、生活をより健全にしようとするならば、むしろ一歩を退いて、事実は一歩を進めて実力以下の銅なり、鉄なりの生活から出発していくべきではなかろうか。」


「何人も『貯金の門』をくぐらずに、巨富には至り得ない。」


「凡人者の天才者に対する必勝とまではいかなくとも、少なくとも不敗の職業戦術がある。それは『仕事に追われないで、仕事を追う』ことである。」


「人生即努力、努力即幸福、これが私の体験社会学の最終結論である。」


「この世の中は鏡のようなものである。自分が額に八の字を寄せて向かえば、世の中という鏡もまた自分に八の字を寄せて睨みかえす。」


「本業第一たるべきこと。本業専一たるべきこと。一つのことに全力を集中して押し進むべきこと。これが平凡人にして、非凡人にも負けず、天才にも負けず、それらに伍してよく成功をかち得る唯一の道である。」


「最高の満足は、努力そのものの中にある。」


「熱心はよいが、執着は物事に対する判断を偏狭にし、能率を下げる。したがって、執着とならないように、仕事が終了したらひとまずそれをきれいに忘れるか、あるいは他に気分を転換する方法を講じるとよい。」


「人生最大の幸福はその職業の道楽化にある。富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。」


「努力の前に閉ざされた扉は、一つもない。」


「貧乏や失敗は、人間が一人前になるのに、どうしても一度はやらねばならぬハシカだから、同じやるなら、なるべく早いうちにやるがいい。」


「世の人の成功不成功といった事績を調べてみると、大体その両者の努力には、大差がないにもかかわらず、不成功者はいずれも、いま一息というところで肝心な打ち込み方が足らない。山登りにたとえるならば、八合目、九合目あたりで苦しくなりいやになり、ついにその登坂をあきらめるか、思いかえして他のコースに転じたりするからである。」


「貧乏に強いられてやむを得ず生活をつめるのではなく、自発的、積極的に勤勉貯蓄につとめて、逆に貧乏を圧倒するのでなければならぬ。」


「金儲けを甘くみてはいけない。真の金儲けはただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほか、別にこれぞという名策名案はない。」


「世俗的な成功の第一義は、まずなんとしても経済生活の独立にある。これなくしては何ごとの成功もおぼつかなく、またどんな成功も、本当の成功とは世間で認めてくれない。この人生に最も大切な経済生活の独立には、どんな職業であるかにかかわらず、積極的に働いて、消極的に節約耐貧するよりほかに道はない。」


「人生の最大幸福は職業の道楽化にある。富も、名誉も、美衣美食も、職業道楽の愉快さには比すべくもない。」


「人間は働けば働くほど、かえって丈夫になるものである。」


「元来貧乏ということは、自分の欲しがるものが持てないということであるから、たとえ貧乏していても満足することを知り、自分の力量を知って無理な望みを起こさず、何も欲しがらないでいる人は、すでに貧乏ではなく、富裕な人と同じである。」


「間奮起するのに、いまからではおそいということは決してない。本人一代のうちに余年がなければ、きっとだれかが代わってこれを完成してくれる。」


「成功した人は決してその職業を月給のためや名誉のためだけで、やってきた人ではなく、必ずその職業に趣味(おもしろみ)を持ち、道楽的に励んだ人に相違ない。」


「労働者でも、商人でも、学生でも、学者でも、百姓でも、その他いかなる職業でも、少し努力を続けさえすれば、必ずその職業に趣味を生じ、道楽化することができる。」


「およそ人生には、死んだつもりで努力忍耐すれば、成し遂げられないことは何一つないはずである。」


「他人との比較で、自分を疲れさせてはならない。」


「人の真価は、ただ努力によってのみ発揮されるから、努力を欠く人は、せっかく持っている、自分の真価を発揮することなく、何一つ成功できずに世を終えることになる。これほど哀れむべきことはない。」


「人生の成功と幸福は、青少年時代の汗の量に比例する。」


「努力の『醍醐味』を知る人に、不幸なし。」


「人生最高の幸福は、社会生活における愛の奉仕によってのみ生じる。わかりやすくいえば、他人のために働くことだ。」


「人は自分の実行能力と、自分の心持ちとにふさわしい生活を営む時、もっとも完全な幸福に浸り得る。」


「今日のわれわれの生活、すなわち人生は徹頭徹尾、努力であり、努力に努力を重ねていくところに、初めて自分の人生の意味があるといえる。努力なしに人生はなく、人生のあらゆる幸福・慰安・休息も、さらには、喜悦も満足も、感謝も、進歩も、すべて努力を通してのみ初めて得られる。結局、人は一生涯、努力を続けること、しかも楽しく努力することこそ、すなわち人生であると、徹底的に悟らなければならない。」


「人間というのは、結果を得て幸福になるのではない。努力そのものが幸福なのだ。」


「比較の対象は他人ではなく、自分の中におくこと。」


「富も名誉も身体が健康であってのことで、たとえ金貨の上に寝起きし、百円札の蒲団に包まっていても、足腰の立たない病人に何の幸福があろう。薬瓶を抱えて天下国家を論じても、何の権威があろう。金殿王楼のうちに、肝臓病や糖尿病で苦しんでいる人よりも、法被一枚で鼻唄でも唄いながら野外で働いている労働者のほうが、どれだけ幸福だかわからない。」


「いかに微力な人でも、その全力をただ一つの目的に集中すれば、必ずそのことを成就し得るし、逆にいかに有為な偉い人でも、多くの目的に力を分散すれば、一事も成すことはできない。」


「社会人として成功するには、とくに人格の根底である品性を高尚にし、悪癖の矯正に努めなければならない。品性の高尚な人は、しだいに社会の信頼と尊敬を受けて、徳望おのずから高まり、自然に成功の域に達するものである。」


日本の林学博士、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した。旧名、折原静六。

日比谷公園を皮切りに、北海道の大沼公園や福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山公園、東京都の明治神宮、長野県の臥竜公園、石川県の卯辰山公園、福岡県の大濠公園ほか、設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツをはじめ、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった。

東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っているほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わる。

また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、2昼夜不眠不休で作成した。

また、昭和3年、当時の比企郡菅谷村(現、埼玉県比企郡嵐山町)にある、現嵐山渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山によく似ていることから、武蔵嵐山と命名したことにより、のちに駅名や自治体名が町制施行時に嵐山町と改称している。

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